五大桜と訪れたい城址ーその5ー石戸蒲桜

メジロとサクラ
日本五大桜といわれる、桜の名木の5本目と、
立ち寄ったついでに訪れたい城を紹介します。

五本目は、石戸蒲桜(いしとかばざくら)で、
そこからほど近い”川越城”を紹介します。

石戸蒲桜(いしとかばざくら)

場所:埼玉県北本市石戸宿3-119
JR高崎線の「北本駅」から
南西方面に約4kmいったところにある、
「東光寺」の境内に、石戸蒲桜(いしとかばざくら)があります。

樹齢は800年で、エドヒガンザクラとヤマザクラが
自然に交配したという、とても珍しい桜です。

幹が4本あったそうですが、
現在では1本のみとなり、
この先どれくらい生きるのか、心配ですね。

少し前まで、世界に1本しかない、
珍しい桜ということでしたが、
いまは北本市の街おこしの一環で、
子孫にあたる桜が、市内に植樹されているそうです。

木の名前の由来は、鎌倉時代の武将で、
源頼朝(みなもとのよりとも)の弟、
範頼(のりより)が関わっています。

範頼は、鎌倉で政治をとる兄・頼朝の代わりとして、
軍の指揮をとり、弟の義経(よしつね)と連携して、
木曽義仲(きそよしなか)追討や、平家討伐に活躍した人物です。

しかし、頼朝に謀反の疑いをかけられてしまい、
鎌倉から追放、この石戸の地に逃げ落ち、
生き延びたと伝えられています。

範頼は、いまの静岡県浜松市で生まれ育ちました。

当時は遠江国蒲御厨(とおとうみのくに かばのみくりや)
という地名だったため、
範頼は”蒲冠者(かばのかじゃ)”とも呼ばれていました。

その名にちなんで、この桜を、
石戸蒲桜(いしとかばざくら)と名付けられたということです。

幕府の要職にも就いた範頼が、
兄でもある頼朝に疑われ、一転追われる身になるなんて、
はかない世の中ですね。


石戸蒲桜

本丸御殿が遺る川越城

石戸蒲桜から南方約10kmに川越城があります。
現在はほとんど市街地化していますが、
国内でも数少ない”本丸御殿”が一部現存しています。

川越城は、1457年に「築城の名手」であった
太田道灌(おおたどうかん)によって築かれました。

川越城は、自然の地形を巧みに活用した平山城でした。

東と北に川が流れ、その外側にも川があり、
ちょうど、近世城郭の外堀の役割をはたしていました。

また、武蔵野台地の北端に位置し、
南は湿地帯だったということなので、
堅固な城だったことでしょう。

関東平野北部にあたるので、平地もあり、
城下町の発展にも有利な地形です。

明治を迎えるまで、存続していたのもうなずけますね。

市内には、本丸御殿以外にも、
ところどころに城の遺構と、
江戸から移築された建物が残されています。

特に、氷川神社には、江戸城にあった東照宮を
移築したものが八坂神社の社殿として現存していて、
川越城が徳川幕府にとって重要な地であったことを物語っています。

城の敷地は9万8千坪と、東京ドーム7個分に相当する広さがありました。

本丸御殿のすぐそばに、川越市立博物館があるので、
遺構を回るより先に、こちらで歴史を再確認してもいいでしょう。


川越城

まとめ

石戸蒲桜(いしとかばざくら)は、北本市に存在する
エドヒガンザクラとヤマザクラが自然交配してできた、
世界的にも珍しい桜です。

樹齢は800年で、以前は4本だった幹が現在では1本が残るのみ。
子孫の桜が市内に植樹されています。

そこから南方にいくと、
天然の地形を利用した川越城があります。

太田道灌が築城し、その後も明治の
廃城を迎えるまで改修を重ねながら活用された城でした。

貴重な本丸御殿が一部ですが現存し、
他にも江戸城から移築された建物が現存しています。

市街地化されて遺構は少ないものの、
城下町を有した城として、訪れて損はない城址です。

スポンサーリンク
レンタルタグ(大)
レンタルタグ(大)

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク
レンタルタグ(大)