日本の城のはてなブログ https://nipponshiro-gimon.com 日本国内にある城にまつわる疑問など書いています Mon, 19 Apr 2021 03:11:40 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.8.9 戦国の世を駆けた麒麟児、明智光秀は城を築いた? https://nipponshiro-gimon.com/2020/05/24/post-692/ https://nipponshiro-gimon.com/2020/05/24/post-692/#respond Sun, 24 May 2020 05:27:27 +0000 https://nipponshiro-gimon.com/?p=692 明智光秀(十兵衛)(あけちみつひで:じゅうべい)は、令和2年( 2020年)の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公ですね。 明智家は、美濃国(現:岐阜県)に拠点を持つ、大名の斎藤道三(さいとうどうさん)の家臣でしたが、斎藤道...

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明智光秀(十兵衛)(あけちみつひで:じゅうべい)は、令和2年( 2020年)の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公ですね。

明智家は、美濃国(現:岐阜県)に拠点を持つ、大名の斎藤道三(さいとうどうさん)の家臣でしたが、斎藤道三と、その子、義龍(よしたつ)の内紛に巻き込まれました。

敗北した道三側に付いていた明智光秀は、明智城を奪われ、落ち延びた末、朝倉家、足利家と転々とした後、織田信長(おだのぶなが)に仕える事になりました。

後に歴史を転換させる「本能寺の変」を起こしますが、日を待たずして、羽柴秀吉(はしばひでよし)によって追い詰められ、命を落としたと言われています。

そんな光秀ですが、信長に仕えている間、城を2基築城しています。

一つは、滋賀県大津市の「坂本城(さかもとじょう)」。
もうひとつは、京都府亀岡市の「亀山城(かめやまじょう)(丹波国)」、別名「亀岡城」を築城しました。

ちなみに「麒麟児」とは、「才能・技芸が特にすぐれ、将来性のある若者」という意味があります。

安土城に次ぐ城といわれた湖の城「坂本城」

坂本城は、岐阜県大津市に存在した城で、信長が比叡山を攻略した後、光秀に命じて築城させました。

坂本城は、琵琶湖に面した地に築かれ、城内に琵琶湖の水を引き入れていたので、船で直接、安土城に向かう事もできました。

本丸は湖面に面した東側に位置し、高層の大天守と連立して小天守が建てられていたとされています。
船から見る城は、さぞ立派だったでしょう。

ポルトガルから来ていたイエズス会の宣教師、ルイス・フロイスは、”安土城に次ぐ城”として、次の様に記しています。

「明智は、都から4レーグァほど離れ、比叡山に近く、近江国の25レーグァもあるかの大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に、邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗にもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。」
(レーグァ:スペイン語でlegua。”リーグ”とも。1リーグァ=1里(約4km)とされる)

この地は、北陸からの物流と、京都の東、比叡山の出入りにあたる、重要な場所にあたります。

当時は、船を使った物流が主流だったので、琵琶湖の航路を監視するにも都合がよかったでしょう。

坂本城は「本願寺の変」の後に破却されました。

今では市街地化によって遺構がほとんど失われています。

本丸にあたる場所には、測定機器メーカーの研修所があり、一般人は立ち入る事はできませんが、石垣の一部が残されています。

本丸跡の南側に、城址公園があり、駐車場もあります。
近辺には、「明智塚」や坂本城の外堀等を示す案内板も設けられており、坂本駅前の観光案内所でガイドマップを入手することも可能です。

「坂本城」
住所:滋賀県大津市下阪本3丁目2

丹波国の要所に築かれた「亀山城」

「亀山城」は、信長に丹波攻略を命じられた光秀が、拠点として築きました。

京都の西には、嵐山を隔てた盆地があり、亀山城は、その盆地中央の南寄りにあります。

この地は南北に大堰川が流れ、街道を北に行くと、舞鶴や福知山、西に行くと、篠山といった町に通じる位置にあります。

川の運輸や、街道の要所を抑える城というのがわかります。

この、光秀が築いた城は、その後天下を取る、豊臣秀吉や、徳川家康も重要視したので、改修が施され、明治時代まで残されていました。

江戸時代に改修された本丸には、五層の層塔型天守が立ち、二層の小天守と複合した、複合天守が建てられました。

大天守は、最上階に回り縁や高欄がありましたが、装飾が少ない簡素な天守だったそうです。

現在、本丸一体は、宗教法人、大本が所有する土地になっています。
遺構としては、本丸跡に、江戸時代に改修された石垣、堀が残されていていますが、遺構を見学するには受付で許可を得る必要があります。

他には、本丸跡からおよそ550mほど南に、東西に約1.5kmに渡って、総構えの跡が今も水路として残されています。

また、亀山城の移築された門が市内各所に移築され、現存しています。

・新御殿門(千代川小学校)
・明智門(桂林寺)
・城門(延福寺)
・城門(大覚寺)

他にも個人所蔵の門も存在しますが、ここでは割愛します。

「亀山城」
住所:京都府亀岡市荒塚町内丸1

まとめ

明智光秀は、信長の命により、2個所に築城しました。

・坂本城
水城で、延暦寺や北陸の街道を抑える要所に築かれました。
城内に琵琶湖の水が引き入れられ、ルイス・フロイスが「安土城に次ぐ城」と紹介しています。
現在は市街地が激しく、遺構はあまり残されていません。

・亀山城
平山城で、京都の西に築かれました。
丹波国の要の城として、後の為政者も重要視した城となり、明治時代になるまでこのされた城でした。

現在は主要部を宗教法人が所有していて、見学には許可が必要です。
その他には、総構えの跡、城門がいくつか移築されて現存しています。

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明智氏のいた明智城って、どんな城? https://nipponshiro-gimon.com/2020/05/13/post-677/ https://nipponshiro-gimon.com/2020/05/13/post-677/#respond Wed, 13 May 2020 10:36:13 +0000 http://nipponshiro-gimon.com/?p=677 美濃国(現:岐阜県)の斎藤家に仕えた明智氏は、斎藤家の内紛に巻き込まれ、美濃を去る事になりました。 内紛とは、前・主君の斎藤 利政(さいとう としまさ)(道三:どうさん)と、利政の長男で、現・主君の斎藤 高政(さいとう ...

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写真森

美濃国(現:岐阜県)の斎藤家に仕えた明智氏は、斎藤家の内紛に巻き込まれ、美濃を去る事になりました。

内紛とは、前・主君の斎藤 利政(さいとう としまさ)(道三:どうさん)と、利政の長男で、現・主君の斎藤 高政(さいとう たかまさ)(義龍:よしたつ)の確執でした。

斎藤 利政(道三)側に付いた明智氏は、長良川の戦いで敗北すると、居城の明智城を高政(義龍)軍に攻略され落城しました。

後に織田信長に使える、明智光秀(あけちみつひで)は落ち延びましたが、明智城とはどんな城だったのでしょうか?

二つある?光秀がいた明智城はどっち?

岐阜県に、「あけちじょう」とされる城は2か所あります。

一つは、恵那市明智町にある「明知城」。
もう一つは、可児市にある「明智城」。

明智町にあるから、恵那市の「明知城」の方が、明智氏の居城のように思えますが、高政軍によって落城した「明智城」は、可児市にある「明智城」です。

明智町は、明智氏発祥と言われる地ですが、その地にある「明知城」は、明知遠山氏の居城であり、土岐明智氏の流れを汲む、明智光秀らの城ではありませんでした。

では、どうして可児市に「明智城」があるのでしょうか?
それは、土岐宗家(ときそうけ)が長森城(現・岐阜市切通6丁目)に拠点を移したことにより、明智荘のある可児市に移転し、「明智城」を拠点としました。

築城されたのは、康永元年(1342)とみられ、高政(義龍)軍による落城が弘治2年(1556)になります。
214年もの間、改修、修復を加えながら明智氏の居城であり続けました。

明智城の縄張りは?城は堅牢だったのか?

現在の明智城は、主郭部が配水池として利用されており、原型を留めていないため、どのような城だったのか、よくわかっていません。

立地は、平地に突き出した丘陵上に築かれていて、美濃川一帯を見渡せる位置にあります。

城の縄張りとして出丸や曲輪が存在し、物見台を備え、それなりに防御設備が整った山城だったとみられています。

配水池のある主郭部以外は、散策路が整備されていて、ところどころに城に関する案内板があり、散策が楽しめるようになっています。

住所:岐阜県可児市瀬田1238-3

明智城へ行くには?駐車場はある?

可児市にある明智城へ電車で行くには、
名鉄広見線の『明智駅』で降り、そこから南に片道約1.5km移動した場所にあります。

車で行く場合、
城址専用の駐車場はありませんので、近くの『花フェスタ記念公園』の西駐車場(料金無料)にクルマを停め、徒歩で散策道を目指すと良いでしょう。

駐車場から西に約1.2kmの位置に、散策道の入り口があります。

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宇都宮城へのアクセスや駐車場は?散策スポットも https://nipponshiro-gimon.com/2020/05/08/post-576/ https://nipponshiro-gimon.com/2020/05/08/post-576/#respond Fri, 08 May 2020 03:53:40 +0000 http://nipponshiro-gimon.com/?p=576 宇都宮城所在地:栃木県宇都宮市本丸町2−24 宇都宮城へ電車で行くなら JR線で向かうなら、宇都宮駅西口を出て徒歩約1.5キロです。 所要時間は約20~30分 東武線なら宇都宮駅東口から徒歩で約900m、所要時間は10分...

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宇都宮城所在地:栃木県宇都宮市本丸町2−24

宇都宮城へ電車で行くなら

JR線で向かうなら、宇都宮駅西口を出て徒歩約1.5キロです。
所要時間は約20~30分

東武線なら宇都宮駅東口から徒歩で約900m、所要時間は10分から15分といったところ。

宇都宮城へ自動車で行くなら

自動車で高速道路車経由の場合、東北道の鹿沼ICもしくは北関東自動車道の宇都宮神三川ICから、向かう事になります。

・鹿沼ICから、最短ルートで約9キロ、空いていれば15分程度の距離です。
・三川ICから、最短ルートで約10キロ、こちらも20分掛からないくらいの距離になっています。

宇都宮城周辺の駐車場

城址公園の南側には、専用駐車場が整備されており、障害者専用スペース合わせて10台程度停める事が可能です。

西側に、市役所の駐車場があり、こちらは台数が多いので、確実に停められると思います。
閉庁中は無料開放されています。

詳しい事は、宇都宮市の公式ページを確認してください。

本庁舎駐車場の利用

ちょっと散策・総構えに位置するかまがわプロムナード

本丸跡からの北500m及び、東500mには、城を取り囲むように水堀があります。
現在は「かまがわプロムナード」と称される遊歩道が整備されていますが、宇都宮城の総構えにあたる遺構になります。

残念ながら、当時の石垣はほとんど見られないようですが、遊歩道を歩いて、当時の宇都宮城の大きさを感じるのも良いかもしれませんね。

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宇都宮城周辺にお土産になりそうなお菓子は? https://nipponshiro-gimon.com/2020/05/07/post-569/ https://nipponshiro-gimon.com/2020/05/07/post-569/#respond Thu, 07 May 2020 03:55:55 +0000 http://nipponshiro-gimon.com/?p=569 宇都宮といえば、餃子が有名ですが、ここではお土産に喜ばれそうなお菓子をピックアップしました。 宇都宮城近辺で気になるお土産3選 懐中汁粉/有限会社 濱田屋本店 明治37年(1904年)創業の和菓子屋さん。 容器に懐中汁粉...

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宇都宮といえば、餃子が有名ですが、ここではお土産に喜ばれそうなお菓子をピックアップしました。

宇都宮城近辺で気になるお土産3選

懐中汁粉/有限会社 濱田屋本店

明治37年(1904年)創業の和菓子屋さん。

容器に懐中汁粉を入れて、お湯を注ぐと即席で汁粉が頂ける一品です。
半月状の形をした皮には、カラフルなイラストが描かれ、頂く前に目を楽しませてくれます。
中身は、さらし餡とあられが入っていて、お湯以外にも、ホットミルクを注いでも美味しくいただけます。

懐中汁粉以外にも、『野州 寿苑』という棹菓子や、『宮小鮒』という饅頭など、色々なお菓子があります。

城址公園から北に1kmほどの場所にあります。

住所:栃木県宇都宮市塙田2-5-23

懐中汁粉/有限会社 濱田屋本店

かりまんシリーズ/髙林堂 本店

明治18年(1885年)創業のお菓子屋さん。

苦境の中から生まれたという「かりまん」が有名なお店です。
しっかりとした黒糖の風味が残るカリッとした外側の皮とは裏腹に、内側はふっくら。
上質な甘みのある、シットリとした「こしあん」のお饅頭です。

1日も2万個も売れるんだとか。

カリッとした食感をいつまでも楽しみたい人には、『かりまんラスク』も用意されています。

城址公園から北北東に900mほどの場所にあります。

住所:栃木県宇都宮市馬場通り3-4-7

かりまんシリーズ/髙林堂 本店

チャット/下野菓子処うさぎや

大正4年(1915年)創業のお菓子屋さん。

詩人の「相田みつを」さんが命名、パッケージデザインされたというお菓子。
バターを練り込んだしっとりとした皮が、たっぷりの白餡を包んでいます。

口の中に、ふわっとほんのり香るバターと、優しい甘みが好評です。

城址公園から北西に1.5kmほどの場所にあります。

住所:栃木県宇都宮市伝馬町4-5

チャット/下野菓子処うさぎや

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残念な城?「関東七名城」の宇都宮城 https://nipponshiro-gimon.com/2020/05/05/post-554/ https://nipponshiro-gimon.com/2020/05/05/post-554/#respond Tue, 05 May 2020 13:50:20 +0000 http://nipponshiro-gimon.com/?p=554 日光の表玄関、宇都宮城 栃木県宇都宮市の中心にある宇都宮城(うつのみやじょう)は、平安時代に土着した、藤原氏系の宇都宮氏が代々居館として使っていた地を、城として改修されたものです。 近代城郭として改修されたのは、江戸時代...

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宇都宮城

日光の表玄関、宇都宮城

栃木県宇都宮市の中心にある宇都宮城(うつのみやじょう)は、平安時代に土着した、藤原氏系の宇都宮氏が代々居館として使っていた地を、城として改修されたものです。

近代城郭として改修されたのは、江戸時代に入ってからで、徳川家康の側近だった本田正純が宇都宮城に入った後に行われました。

湧き水と川の水を引き込んだ水堀を持つ平城で、本丸と二の丸を輪郭、他の曲輪と梯郭式につないだ、複合式の城でした。

城の外の街を取り囲むように惣構えも施されています。

現在でも、惣構えに相当する場所は地図上で確認できます。
特に、「かまがわプロムナード」と呼ばれる通りは、北から東にかけての、惣構えそのままの位置に当たります。

総構えの西側は、現在「東京街道」がそれに位置します。

宇都宮城は関東七名城の一つとされ、江戸時代には、将軍が日光東照宮に詣でる時の宿舎として活用された、重要な城でした。

しかし、市街地の城の運命、明治時代以降は、町の発展と共に、多くの遺構が破壊されました。

復元櫓と、ハリボテ土塁

城跡の西側に、市役所の駐車場がありますが、駐車場側から城に向かうと、ちょっと風変わりな風景が望めます。

本丸にあたる土塁に穴が開いているんですね。

水堀に掛かる橋を渡り、土塁の穴を通ると、本丸広場に入れます。

土塁に穴って、そこらの城ではありえません。
通常なら、門の跡が入り口だったり、門ではなかったとしても、土塁に穴など開けません。

土塁通行口

それには、宇都宮城ならではの事情もありました。

宇都宮城は、市街地に残る多くの城と同様、市街地化によって、ほとんどの遺構が破壊されていました。

しかし平成になり、本丸公園として残されていた一帯を復元しました。

本丸の西側を中心に、水堀、土塁、櫓、塀を復元させています。

土塁は、正確には『土塁』ではありません。

骨組みを組み、板を張り、その上に土塁に見せかける装飾が施されています。
いわばハリボテ

骨組みがあるので、崩落の心配はなく、土塁の高さも十分に出せます。

本来の門は本丸の北側にあるのですが、西側の市役所駐車場から本丸公園に入れるよう、本来なら無かった西側に橋を掛け、土塁となっていた場所に穴を開ける事態になってしまいました。

ハリボテと聞いて、ガッカリするかもしれないですが、観光として失われた城を現在に蘇らせるためだけじゃなく、避難時の場所や備蓄品の保管施設としても活用できるメリットもあるので、現代に合わせた良い試みではないでしょうか。

さらに、土塁の中には資料館や、土塁に上がるエレベーターを設置するなど、無駄のない設計になっています。

資料館には、工事で現在の姿になっていく写真も展示されています。

失われた城を再現したいと考えている自治体には、良い資料になるかもしれないですね。

細部にこだわりを感じる復元宇都宮城

土塁の上には、土塁の端から階段で上がる方法と、資料館内部からエレベーターで上がる方法があります。

上がると、土塁に沿って塀が再現され、銃眼も施されています。

塀をよく見ると、三角に飛び出している箇所があります。
これは「横矢掛」を意識した造りですね。

土塁にとりついた敵を、ここから狙い撃つためのものです。

こういった、細かい再現は、城好きを喜ばせてくれます。

塀と銃眼

堀に沿った北と南端には、それぞれ櫓が木造で復元されています。

北にある二層二階の櫓は、実質的な天守として扱われたといわれる「清明台櫓(せいめいだいやぐら)」です。

櫓には1階部分のみですが、見学が可能。

復元された城の周りにも、こだわりを感じる場所があります。

また、本丸西側の堀沿いの遊歩道を歩いていると、不規則なラインが引かれていることに気づきます。

これは、本来の堀の位置を示したラインです。
他にも、本丸の門付近や、市役所駐車場近くにも、ラインが引かれています。

市街地では、遺構を復元するための十分な土地が確保できない事が多いので、こういった細かい表示で、楽しませてくれます。

本丸広場パノラマ

まとめ

宇都宮城は、輪郭梯郭複合式の平城で、水堀が施されていました。
近代城郭に改修したのは、本田正純。
惣構えもあり、現在でも遺構は確認出来ます。

本丸の一部は、土塁、水堀、塀など外観復元がされていて、資料館も併設。
清明台櫓、富士見櫓が木造復元され、1階は見学ができます。

塀の横矢掛や、本来の堀の位置を、遊歩道にラインで分かるようにするなど、細かい部分に気を使って、城好きも楽しめる城になっています。

今後も復元範囲を広げる計画があるそうなので、名城を復元して欲しいですね。

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姫路城のお土産は?3つ紹介 https://nipponshiro-gimon.com/2018/09/04/post-526/ https://nipponshiro-gimon.com/2018/09/04/post-526/#respond Tue, 04 Sep 2018 02:35:31 +0000 http://nipponshiro-gimon.com/?p=526 世界遺産ともなれば、海外からも観光客が訪れるでしょう。 姫路城のお土産も、色々と魅力的なものがありすぎて困りますよね。 その中で、特に気になるお土産を3つ紹介します。 お土産にしたい、姫路城周辺の名物3つ 焼きあなご /...

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miyage

世界遺産ともなれば、海外からも観光客が訪れるでしょう。
姫路城のお土産も、色々と魅力的なものがありすぎて困りますよね。

その中で、特に気になるお土産を3つ紹介します。

お土産にしたい、姫路城周辺の名物3つ

焼きあなご / はなおか

姫路に行ったら、食べてみたいのが、この「焼きあなご」。
穴子は関東と関西では、扱いが違いますね。

関東だと煮穴子で食されるのが一般的で、関西では焼くのが一般的だったりします。

なにせ、江戸前(東京湾)は湾ですし、瀬戸内海とは、潮の流れの強さが違います。

食味が違うので、調理方法に差が出たのでしょうね。

姫路では、お雑煮に焼き穴子を入れる風習があるそうです。
長い姿が縁起が良いんだとか。

”はなおか”の焼きあなごは、瀬戸内海の厳しい海で育った穴子を使っているので、焼いても満足いく一品です。

”はなおか”は、姫路港に店舗があり、店頭での販売と、電話やFAXで注文すれば、発送してもらえます。

住所:兵庫県姫路市飾磨区須加260番地

千年杉(せんねんすぎ) / 杵屋

杵屋のバウムクーヘンは、真ん中にクリームや餡が入っている”創作菓子”です。

そのなかでも、「千年杉」は、小倉クリームが入ったものと、柚子餡が入ったもの。

外側は、チョコレートでコーティングし、さらにアーモンドスライスとココアがまぶされていて、まさに”杉”のような外観をしています。

サクッ、フワッな食感が想像できそうですね。
店舗はいくつかありますが、姫路城の近くで購入するなら、本店が一番近くにあります。

姫路駅地下や、中央口のお土産売り場でも購入することができるので、電車で訪れても、帰りに買うこともできますね。
また、ネットでの通信販売も行っていますので、リピートすることもできます。

千年杉(せんねんすぎ) / 杵屋

玉椿(たまつばき) / 伊勢屋本店

江戸時代から開業している、老舗のお菓子。
藩の御用菓子になっていたほどの銘菓ということで、気になる和菓子です。

黄身餡を薄紅色の求肥で包んだ和菓子で、見た目にも上品な雰囲気が伝わってきます。
きっと、濃いめの熱い緑茶に合う、上質な味なんでしょう。

「白小豆(しろしょうず)」という、希少な小豆が使われているとのことで、白亜の姫路城との相性も抜群ですね。
店舗はいくつかありますが、お城から一番近いのは、「西二階町店」です。

もちろん、駅での販売も行っていますので、電車旅行でも安心して買えますね。
ネットでの通信販売も行っています。

玉椿(たまつばき) / 伊勢屋本店

まとめ

姫路城下のお土産

・焼きあなご / はなおか
関東ではなじみの薄い、”焼き”あなごです。
専用のタレで、舌鼓を打ってみては。

・千年杉 / 杵屋
バウムクーヘンを元にした、創作菓子です。
アーモンドやココアパウダーで、外観がまるで杉のよう。

・玉椿 / 伊勢屋本店
藩の御用菓子として上納された、和菓子です。
珍しい白大豆を使用しています。

他のお土産も沢山あります。
こちらを参照してみてください。

【姫路】おすすめ定番お土産12選!かわいい和菓子や雑貨など♪

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播磨の国(兵庫県)、姫路城へのアクセスは? https://nipponshiro-gimon.com/2018/09/03/post-516/ https://nipponshiro-gimon.com/2018/09/03/post-516/#respond Sun, 02 Sep 2018 16:18:45 +0000 http://nipponshiro-gimon.com/?p=516 現存天守で国宝、そして世界遺産に認定されている兵庫県の姫路城。 国内外問わず、とっても有名な城だけど、まだ訪れたことがなかったら、アクセスって気になりますよね。 姫路城はもともと、交通の要所で、西日本の抑えとして期待され...

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駐車

現存天守で国宝、そして世界遺産に認定されている兵庫県の姫路城。
国内外問わず、とっても有名な城だけど、まだ訪れたことがなかったら、アクセスって気になりますよね。

姫路城はもともと、交通の要所で、西日本の抑えとして期待された城でもあるので、とてもアクセスの良い場所にあります。

電車で行く、姫路城

姫路城へ観光で訪れる時の最寄駅は、山陽新幹線の「姫路駅」です。
分かりやすいですね。

新幹線なら、西は博多から、東は東京まで、乗継なしで訪れる事が出来ます。

駅から城までは、北に1km程の場所に、大手門にたどり着きます。
駅から大手門まで、まっすぐに伸びた道の先に、白亜の天守が望め、「姫路に来た」という感じがします。

車で、姫路城に行く

自動車で向かう場合、高速道路なら、山陽自動車道の”姫路東インターチェンジ”を降りるのが近いです。

西から向かう場合、”姫路西インター”もありますが、こちらの方がインターからの距離が少しあります。
とはいえ、距離の差が2-3kmなので、いったん東インターに向かうよりも、ここで降りた方が早いでしょう。

市内には、駐車場はたくさんありますが、城に近い駐車場は、次の通りです。

・城の北駐車場(150台):城の北側、徒歩約13分
・姫山駐車場(250台):城の東側、徒歩約5分
・大手門駐車場(510台):城の南西側、徒歩約15分
・大手前公園地下駐車場(328台):城の南側、徒歩約12分
どの駐車場も、3時間を超えて1日以内は900円です。

繁忙期のみ、次の駐車場が開放されます。
城見台臨時駐車場(277台):城の南東側、徒歩約12分
1日利用料金:800円
本町臨時駐車場(250台):城の南西側:徒歩約18分
1日利用料金:500円
こちらは1回払い切りの料金です。
若干安いですが、利用時間が17時までなので、注意が必要です。

料金などは変わる場合もあるので、訪れる前に、確認しておきましょう。

姫路市まちづくり振興機構(姫路城周辺駐車場)
http://himeji-machishin.jp/parking/parking_1.html

(所要時間は、駐車場から天守までを目安としました)


姫路城:国宝・世界遺産(Google map)

まとめ

新幹線で行くなら、山陽新幹線の「姫路駅」が最寄駅になります。
駅から大手門まで約1kmなので、徒歩で行くことができます。
レンタカーを借りる必要はなさそうですね。

車でいくなら、姫路東インター、もしくは西インターを降りて向かうことができます。

さすがに世界遺産だけあって、観光客もたくさん訪れるのでしょう、駐車場の数も充実しています。

繁忙期には臨時駐車場が2か所も開放されますが、混雑が予想されるので、早めに到着したほうがいいでしょう。

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宮本武蔵
姫路城は、最上階に刑部(長壁:おさかべ)大神を奉った刑部神社がある珍しい城です。

なぜ、こんなところに神社が祀(まつ)られているのかというと、地元に伝わる、ある妖怪伝説が関係していました。
かの有名な、剣豪・宮本武蔵(みやもとむさし)も関わっているという伝説とはいったいどんなものでしょうか?

妖怪伝説?宮本武蔵と姫路城

宮本武蔵といえば、巌流島で佐々木小次郎(ささきこじろう)と決闘の際、わざと遅れてやってくることで相手を焦らし、勝利を得たという話が有名です。
真剣での決闘を生涯に何度も行い、一度も負けたことがなく、後世に「五輪の書(ごりんのしょ)」を残しました。

その宮本武蔵が、姫路城の伝説にどのように関わったのでしょうか?

関ケ原の戦い(1600)が始まる少し前、木下家定(きのしたいえさだ)という大名が城主の頃の話です。
腕は立つものの、誰にも仕えていなかった武蔵は、名前を変えて足軽の一人として奉公していました。

このころ、天守に妖怪が出るという噂があり、夜の見張り番はみんな恐れてしまいました。
これでは夜の見張りに支障が出てしまいます。
ところが、名前を変えた武蔵だけは、平気で夜の番を務めていました。

そんな様子を、もしや剣豪の武蔵ではないかと勘繰られ、正体がばれてしまい、妖怪退治を命じられます。

武蔵は、妖怪を退治することになり、ある夜、明かりを持って天守に上っていきました。

三階の階段に差し掛かかった時、突然激しい炎が回りを取り囲み、地鳴りや雷が轟(とどろ)きました。
武蔵はすぐさま、切りかかろうと太刀に手を掛けた途端、ピタリと炎は消え、轟音(ごうおん)も止みました。

四階に登ると、先ほどのような炎と轟音が鳴りますが、恐れずに太刀に手を掛けると、やはり不可解な現象がピタリと止みました。

とうとう最上階までやってきた武蔵は、妖怪の正体を突き止めようと朝まで待ちますが、そのうち夜が明けてきます。
眠気に誘われ、うつらうつらしていると、どこからともなく、女性の声が聞こえてきました。

聞けば、長壁姫(おさかべひめ)といい、城の守り神とのこと。
もともと、本丸のある姫山に刑部神社(おさかべじんじゃ)があったのですが、築城の際に移動させたため、妖怪が天守に住み着いたと言うのです。

しかし、武蔵が逃げずに登ってきたことで、妖怪は逃げ出したと姫は言います。
姫は、妖怪を追い出した礼として、武蔵に郷義弘(ごうのよしひろ)という名刀を与えました。

以上が、姫路の地元に伝わる、宮本武蔵と姫路城にまつわる伝説です。

実は、この話には後日譚があります。

この怪異を引き起こしたのは、天守に住むタヌキが化かしたものでした。
武蔵の前に現れた姫もタヌキが化け、木下家の家宝である刀を武蔵に渡し、騙そうとしたというのです。

しかし武蔵は正体を見破ってタヌキを退治し、罪にも問われませんでした。

時代は下り、長壁姫は再び現れることになります。
どんな物語があったのでしょうか?

天守内部に祀られる刑部神社

天守の最上階にある神社を奉ったのは、池田輝政(いけだてるまさ)が城主の頃でした。
池田輝政は、1601年から1609年にかけて、姫路城を中世平山城から大規模な近代城郭に造り変えた大名です。

その姫路城天守が完成するころ、不可解な出来事が起こったといいます。

そして、輝政本人も病に倒れてしまいます。

これを町の人々は刑部神社の祟りだと噂しました。
城には、輝政の症状を回復させる方法が書かれた手紙が届きます。
その手紙には、天守内と、「と」の門に刑部大神を祀る神社を建て、護摩祈祷を行う事が書かれていました。

その通りにすると、一時的ではありましたが、輝政の病状は回復したということです。

その時に建てた刑部神社が、天守内に今も残っているのです。

しかし結局、輝政は亡くなり、池田家は領地を変わることになります。

刑部神社(おさかべ)について調べてみると、以下のように書かれていました。

刑部親王(光仁天皇の皇子)は藤原百川の讒言によりその地位を追われると、親王の王女であるという富姫も幼い頃より住んでいた姫山の地で薨去。国司の角野氏がこの2人を守護神として姫山に祀って以来、代々の国司や守護職からの厚い保護と庶民からも厚い信仰を受けた。

どうやら、荒魂(あらみたま)を祀った神社のようですね。
刑部神社を姫山から移したことが祟りの原因だとすると、姫山から移した秀吉(ひでよし)が祟られないのは不思議です。

池田輝政は、織田信長(おだのぶなが)に仕えた武将でしたが、没後は豊臣秀吉に仕え、信頼もされていました。
それだけに徳川家へ鞍替えしたことで、秀吉の祟りではないかという噂も立ったということです。

それにしても、刑部(おさかべ)が長壁(おさかべ)へと字が変わったのは、姫路城の城壁が白漆喰塗りで長壁が目立つため、そのようになったのかもしれませんね。

まとめ

姫路城最上階に祀られている刑部(長壁:おさかべ)神社には、妖怪にまつわる伝説がありました。
一つは、今のような姿になる前の姫路城で、剣豪・宮本武蔵さ関わっていました。
内部は五階だったのでしょうか、当時も立派な天守だったようですね。
妖怪の仕業であったとも、タヌキが騙したともいわれる伝説です。

そして、池田輝政が現在の姿に建て替えた時の話です。

怪異を鎮めるために、城に届けられた手紙が示す通り、天守最上階に奉られることになりました。

祟り話とは穏やかではありませんが、現在でも神社が残されているということは、当時本当に怪異があったのでしょうか?
怪異とはいわずとも、何かあったのかもしれませんね。

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姫路城のシンボル、本丸の魅力見どころとは? https://nipponshiro-gimon.com/2018/08/28/post-507/ https://nipponshiro-gimon.com/2018/08/28/post-507/#respond Tue, 28 Aug 2018 01:12:10 +0000 http://nipponshiro-gimon.com/?p=507 姫路城(ひめじじょう)は45.6mの姫山の上に、天守が建てられています。 天守はおよそ31.5m、天守を支える天守台は14.9mあり、最高部は標高92mの高さになります。 他の国宝天守の高さはこちら↓ 国宝天守の高さは?...

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駅から姫路城

姫路城(ひめじじょう)は45.6mの姫山の上に、天守が建てられています。
天守はおよそ31.5m、天守を支える天守台は14.9mあり、最高部は標高92mの高さになります。

他の国宝天守の高さはこちら↓
国宝天守の高さは?国宝5天守のたけ比べ

この高さのおかげで、姫路駅のメインストリートからでも、よく見えるんですね。

本丸は、大天守と乾(いぬい)小天守および、東、西の小天守をそれぞれ渡り櫓で接続した、連立式の天守が優雅にそびえています。
連立式の天守は、その美しさから、よく写真で紹介されていますが、外部から見た美しさとは裏腹に、堅固な本丸の防御を備えたものでした。

どのような造りになっているか、見どころを確認してみましょう。

攻略不能渡り櫓に囲まれた本丸の厳しい防御

連立式の天守は、本丸の北側にある腰曲輪(こしぐるわ)や、南側の備前丸(びぜんまる)はもちろん、東西の通り道に対しても攻撃ができます。
なおかつ、本丸内部は渡り櫓に囲まれた中庭になっていて、中庭に向けても攻撃が加えられるようになっています。

姫路城は本丸にたどり着くだけでも、大変困難に造られています。

さらに天守までたどり着くには、この本丸を囲む小天守群と、渡り櫓からの攻撃に晒されるという仕掛けになっています。

訪れた時には、この本丸を囲む見事な渡り櫓から、どんな攻撃が繰り出されるのか、想像しながら回ってみたいものですね。

国内一の高さを支える心柱の秘密

大天守は、約15mの石垣の上に、31.5mの高さで造られています。
外観が5層、内部は6階になっていますが、31mというとおよそ10階建てのビルに匹敵する高さになります。

木造建築なので、内部は木で作られているわけですが、姫路城は「心柱」という柱が2本縦に入っていて、これが大天守を支えています。

さすがに31mの木材を調達するには大変なことなのでしょうか、心柱の長さは24.6mとなり、その上に6階を組んでいます。

心柱だけでも、ビル8階程度の高さがあることになりますね。

心柱は大天守の東西にありますが、東側は創建当時のもの、西側は腐食が進んでいたために、昭和の大修理の際、取り替えられました。

その時、候補に挙がったのが、長野県木曽(きそ)の山中にある大木でした。
しかし、この長さの木材を1本そのまま運び込むことは至難の業だったようで、途中で折れてしまいます。

急遽代わりになる木を探したところ、姫路近郊の笠形神社にある大木の提供を受けることができました。
とはいうものの、長さ、太さ共に不足していたため、木曽から運んだ大木と繋ぎ合わせて使うことになりました。

すなわち、心柱の下部は木曽、上部は地元、姫路の木が姫路城の西側を支えているのです。

ちなみに、西側の心柱は、もともとつなぎ合わせたものが使われていたそうです。
それは、1本のままだと東の心柱に干渉し、立ち上げることができないため、創建時も途中でつなぎ合わせて建てられたのでした。

もし、木曽の山から1本のまま運び込んでいたとしても、途中で繋ぎ合わせなければ建てられなかったということです。

まとめ

姫路城の本丸は、大天守を核に、乾小天守、東小天守、西小天守を渡り櫓で繋いだ連立式です。
写真で紹介される、白亜の美しい姿の裏には、最後まで寄せ手を受け付けない鉄壁の守りを備えたものでした。

また、31.5mもの大天守を支える心柱は、東西それぞれ1本ずつ入っています。
東側の心柱は創建当時のもの、西側は一度入れ替えられています。

入れ替えの際、1本の木を使う計画だったものの、途中で折れてしまうハプニングに見舞われました。
しかし、そのことにより、地元姫路の木が姫路城を支えることになりました。

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姫路城 内堀内に残された縄張りとは? https://nipponshiro-gimon.com/2018/08/05/post-501/ https://nipponshiro-gimon.com/2018/08/05/post-501/#respond Sun, 05 Aug 2018 08:49:42 +0000 http://nipponshiro-gimon.com/?p=501 姫路城が全国の城の中でも注目される理由のひとつに、非常に良好に残された縄張り遺構が挙げられます。 内堀より中の遺構は、門の数や櫓がいくつも立ち並び、迷路のようになっていて堅牢に造られていることはよく知られています。 近世...

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はの門への坂道

姫路城が全国の城の中でも注目される理由のひとつに、非常に良好に残された縄張り遺構が挙げられます。
内堀より中の遺構は、門の数や櫓がいくつも立ち並び、迷路のようになっていて堅牢に造られていることはよく知られています。

近世城郭でありながら、複雑な縄張りになっているのは、古い縄張りをそのまま取り入れていることによります。

というのも、姫路城が外堀も含めた今の形になるのは、1600年以降、池田輝政(いけだ てるまさ)、本田忠政(ほんだ ただまさ)らによって拡張されたことによります。
それまでの姫路城というのは、現在の内堀内に収まる程度の大きさでしたが、戦上手の武将、羽柴(豊臣)秀吉(はしば ひでよし)が手掛けた縄張りを持つ城でした。

それだけに、手を加える必要がほとんどないほど、完成された造りだったのでしょう。
そのまま残されることになりました。
そんな貴重な遺構を現在でもみることができるのが、国宝の名にふさわしい、姫路城の魅力のひとつでもあるのです。

では、内堀内の遺構には、どんな仕掛けが施されているのでしょうか?

狭い敷地を有効活用、迷路のような誘導路

現在の姫路城は、「菱」の門をくぐり、右手に三国堀を見ながらまっすぐに「い」の門くぐり、二の丸を抜け、「ろ」の門から「ほ」の門まで、曲がりくねった道を上っていくことになります。
このあたりの曲輪の区画や、道筋も、おおかた羽柴秀吉によって整備された縄張りになっているとされています。

姫路城は、平山城に分類されますが、「姫山」という山を城郭化しています。

天守にたどり着くには、姫山を登ることになるわけですが、高低差をうまく使い、天守までの道のりを迷路のように曲がりくねらせています。

こうした道の曲がり角には塀や櫓を建て、四方から攻撃が仕掛けられるように工夫がされています。

もちろん、道の途中にはいくつも門を設け、なかなか天守までたどり着けないようにしていました。
こうした工夫を、池田氏時代や本田氏時代に残したことで、見せる事を目的とした近世城郭の中でも、実戦的な縄張りを持つ城として現在も私たちを楽しませてくれています。

門の数、櫓の数

姫路城を守るために建てられた櫓の数は、61棟ありました。
これは、国内で2番目に多い櫓数です。

一番多かったのは、広島城の76棟だったんだとか。

姫路城内に現存する櫓の27棟は、国宝に指定されています。
どれも現存なので、見ごたえのあるものですが、本丸北側の腰曲輪に設置されている、イ、ロ、ハの渡櫓は、大きさといい、高さといい、見ごたえのある櫓です。

門の数は84門と、これも多くの門が設置されていたことが分かります。
姫路城では現在21の門がありますが、棟門、高麗門、埋門など、さまざまな形式があります。
門を通るごとに、形式の違いを楽しませてくれます。

訪れておきたい門として、三国堀右手にある「る」の門、「ぬ」の門があります。
「る」の門は、石垣の中に穴を穿って造る、埋門(うずみもん)形式の門になっています。
石垣に直接作っているため、目立ちにくく、寄せ手が城内へ入ってきても見つかりにくいようになっています。
本丸への近道にもなり、ここを通って「ぬ」の門を経て搦め手方向へ抜けることができます。

「ぬ」の門は門の上に二層の櫓が設置された珍しい構造になっています。
天守への近道になる「ぬ」の門は、三方が囲まれるようになっていて、寄せ手がここを攻めても、なかなか落ちないようになっていました。

まとめ

姫路城が国宝にふさわしい城として、魅力のひとつが内堀より中の縄張りにあります。
本丸までの厳しい防御施設は、きわめて実践的で、戦国時代の形を留めています。

また、61棟の櫓と84門を備えた城塞として、西日本でにらみを利かせ、徳川幕府を支えました。

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