いま、私たちが目にする城の多くは、
大きくて立派な城ですよね。
ニュースで取り上げられるのも、
弘前城や姫路城といった現存天守とか、
名古屋城、大阪城のような有名どころ。
でも、ああいった立派な城が、
いきなり現れたわけじゃなく、
長い年月をかけて完成されていきました。
築城の技術が成熟したのは、室町時代末期から
江戸時代にかけてですが、戦い方の変化と、
昔から蓄積されてきた技術があってこそでした。
では、築城の技術って、どこから始まって、
発展していったのでしょうか?
村を守るため、堀を巡らせた防御施設
人が外敵から身を守るための設備を、
常に設置した場所を、現在でいうところの城を指すなら、
そのルーツは、縄文文化ころまでさかのぼります。
まだ、「城」という概念が無い時代ですね。
環濠集落(かんごうしゅうらく)という言葉を
聞いたことはあると思います。
集落の周りに濠(ほり)を環(わ)の形状に掘って
囲んだ場所を指します。
このころ、外敵は動物に対するものだったと
考えられています。
いまよりずっと、熊や猪、日本オオカミがいた時代です。
濠は約2mを超え、柵と、
逆茂木(さかもぎ)と呼ばれる木の枝を使った設備で、
外敵の侵入を阻みました。
城のなかでも重要な「堀」の前身である濠や、
「塀」の前身である柵、山城の防衛で多く使用された
逆茂木など、すでにこの時期にあったわけですね。
佐賀県の吉野ケ里遺跡には、
一部再現されているので、その姿をみることができます。
環濠集落は、生活の場を囲んでいましたが、
のちに独立した臨時の場所に、
土を掘って縄張りを形成するようになると、
”土”と”成”の字から城(き:しろ)と呼ばれるように
なってきました。
国家事業の巨大防壁と山城
時はさがって、奈良に都(みやこ)があった時代、
日本は朝鮮半島の”百済(くだら)”という
国とのつながりがありました。
百済はシナ大陸の唐と、新羅(しらぎ)に攻められ
日本に助けを求めました。
日本は百済の求めに応じ、援軍を出します。
しかし、白村江(はくすきのえ:はくそんこう)での
戦いに敗れ、朝鮮半島からの追撃に
そなえることになります。
このころ、大和政権は”大宰府”を
北九州の拠点としていて、
朝鮮半島から攻撃を受けた場合、
ここを落とされないように備えました。
その備えに、水城(みずき)と呼ばれる、
巨大な関門を造りました。
博多から大宰府は平坦な地形なので、
両脇に山が迫る場所に、
長さ約1200m、幅80m、高さ9mという
巨大な土塁を築いたんです。
土塁の弱い部分には、枝葉を入れて強度を強くし、
土を10センチ単位で突き固めていく、
版築(はんちく)と呼ばれる方法でした。
水城には、川や雨水を通す木樋も通されていたそうで、
高い土木技術が必要です。
いまも、水城の巨大な遺構は、道路整備などで
ところどころ寸断されていますが、
今でも確認することができます。
航空写真でも、その姿を確認できます。
グーグルマップで水城上空を表示し、
写真画像にすると、”水城西門跡”から”水城3丁目”まで
一直線に木々が並んでいるのが確認できます。
侵攻にそなえた施設は、水城のほかにも、
山城の原型といえる大野城と、
基肄城(きいじょう)を築いています。
この城は朝鮮式山城(ちょうせんしきやましろ)と
呼ばれるもので、百済から亡命した技師が
監督したとされています。
土塁や石塁で壁を造り、
主要部分を取り囲む構造になっていて、
水を通す開口が設けられていました。
日本の城では、土塁を造っても、
わざわざ排水のための開口を設けていないので、
独特な技術ですね。
こうした、巨大な関門である水城や、
古代の山城である大野城のような城は、
大陸ではよく見られた施設でした。
これらの城は、国家事業としての工事なので、
大和政権を助けた地方の豪族にも広まったことでしょう。
城を造り、博多も防人(さきもり)を置いて、
大陸からの侵攻に備えましたが、
けっきょく攻めてくることはなく、杞憂におわりました。
まとめ
現在みられる城のルーツは、環濠集落にありました。
主に、獣から身を守るために設けられた豪や柵は、
後に堀や塀に変わっていきます。
そこから時代は流れ、歴史に残る太古の城は、
大陸からの侵攻に備え、大宰府周辺に築いたものでした。
巨大な関門の水城(みずき)や、百済の技術者が
監督したとされる、大野城、基肄城(きいじょう)は、
古代の山城の姿を伝えています。
国家の存亡をかけた一大事業でしたが、幸いに、
これらの城が使われることはありませんでした。