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信長が決意を固めた岐阜城とは?

信長像
岐阜城は、標高329m、麓との高低差が
約300mある”金華山”の山頂に建てられています。

金華山そのものが険しい山で、
砦も設けられていたので、
難攻不落の城」といわれていました。

その城を織田信長が手中に入れたとき、
歴史は群雄割拠する混乱の世から、
統一に向けて動き始めました。

信長が手に入れた岐阜城とは、どんな城でしょうか?

計略によって奪取した城

信長が岐阜城に入る前、この山は稲葉山、
城も稲葉山城と呼ばれていました。

稲葉山の北に長良川が東西方向に流れ、
他の山に続く峰もなく、高低差の高い山なので、
難攻不落の城として知られていました。

まだ一地方豪族にすぎなかった信長は
なかなか攻め落とすことはできません。

この地を支配していた斎藤氏は、
信長軍よりも強力でしたが、親子相食む争いが絶えず、
家臣の結束も強いとはいえませんでした。

そこで信長は、計略によって寝返りを誘い
城攻めのさいちゅうに内通をうながし、
城を奪取することに成功するのです。

信長は、支那大陸の古代王朝、”周”の文王が、
岐山(きざん)から発祥して天下を平定したという
故事にならい、「岐阜」と改名します。

井ノ口と呼ばれた地を岐阜とし、
稲葉山を金華山と変え、
稲葉山城を改修して岐阜城を造ります。

拠点を岐阜城に移した信長は、
この地で天下太平の治世を確立することを誓い、
天下布武”の印を用いるようになります。

天下布武:2010年以前は、全国制覇の意味とされましたが、現在は、足利将軍を擁して機内の治世を確立する意として使われています。

岐阜城から濃尾平野を一望した信長の胸中は
いかばかりだったでしょうか。

信長はその後、本能寺の変で横死しますが、
天下統一への道は、
羽柴秀吉(はしばひでよし:後の豊臣秀吉)に
引き継がれます。

もし、信長が天下布武を決意しなければ、
争乱は長引いていたかもしれませんね。


岐阜城

岐阜城での信長

信長は1576年(天正4年)に嫡子・信忠(のぶただ)
家督を譲り、安土に築城をはじめますが、
岐阜城での治世と無関係ではありませんでした。

この安土城の天主の前身として、
麓には天主と名のつく御殿を建てていて、
安土で行った楽市楽座も、岐阜で先に行っています。

さらに、今でも名物となっている”鵜飼”を保護し、
接待に活用したことが知られています。

破天荒な言動から”覇王”と言われ、
恐ろしいイメージで語られることの多い信長ですが、
慎重で、きめ細かい部分があることがうかがえます。

信長の後の岐阜城

信長が本能寺の変で横死し、豊臣家の世の中になっても、
岐阜城は存続していましたが、
江戸時代には破却されました。

徳川家康は、信長のイメージが強く、
堅固な山城であるこの城を好まなかったため、
新たに”加納城(かのうじょう)”を築きます。

岐阜城はその時、石垣や櫓などを
加納城に移築したと伝わっています。

ですがその加納城も、今は市街地化にともなって、
建物は残っていません

加納城以外に、寺院にも岐阜城の建物が移築されました。

ひとつは、金華山麓にある”妙照寺”の、
山寄りに建つ門で、もう一つは、
その西にある”法華寺”の門です。

この二つの門は、岐阜城から移築したものが
現存しています

現在、金華山の頂上には、復興天守が建っていますが、
加納城の三階櫓の設計図を元にしており、
徳川天守に近い外観になっています。

まとめ

信長は、調略で稲葉山城を落とすと、
岐阜城を築城し、”天下布武”を誓います。

濃尾平野を一望できる山に造られた”岐阜城”は、
難攻不落の城でした。

金華山を訪れて、山頂を仰ぎ見ると、
白い天守が顔を覗かせますが、
「よくあんなところに造ったな」と
思わずにはいられません。

ロープウェーで天守の近くまで登れますが、
なかった時代は大変だったでしょうね。

天守の最上階まで登ると、濃尾平野を見下ろす絶景
目にすることができます。

長良川では、信長も保護した”鵜飼”が
今も脈々と受け継がれ、親しまれています。

また、城は破却されましたが、門が移築され、
寺院の門として現存しています。

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