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姫路城 内堀内に残された縄張りとは?

はの門への坂道

姫路城が全国の城の中でも注目される理由のひとつに、非常に良好に残された縄張り遺構が挙げられます。
内堀より中の遺構は、門の数や櫓がいくつも立ち並び、迷路のようになっていて堅牢に造られていることはよく知られています。

近世城郭でありながら、複雑な縄張りになっているのは、古い縄張りをそのまま取り入れていることによります。

というのも、姫路城が外堀も含めた今の形になるのは、1600年以降、池田輝政(いけだ てるまさ)、本田忠政(ほんだ ただまさ)らによって拡張されたことによります。
それまでの姫路城というのは、現在の内堀内に収まる程度の大きさでしたが、戦上手の武将、羽柴(豊臣)秀吉(はしば ひでよし)が手掛けた縄張りを持つ城でした。

それだけに、手を加える必要がほとんどないほど、完成された造りだったのでしょう。
そのまま残されることになりました。
そんな貴重な遺構を現在でもみることができるのが、国宝の名にふさわしい、姫路城の魅力のひとつでもあるのです。

では、内堀内の遺構には、どんな仕掛けが施されているのでしょうか?

狭い敷地を有効活用、迷路のような誘導路

現在の姫路城は、「菱」の門をくぐり、右手に三国堀を見ながらまっすぐに「い」の門くぐり、二の丸を抜け、「ろ」の門から「ほ」の門まで、曲がりくねった道を上っていくことになります。
このあたりの曲輪の区画や、道筋も、おおかた羽柴秀吉によって整備された縄張りになっているとされています。

姫路城は、平山城に分類されますが、「姫山」という山を城郭化しています。

天守にたどり着くには、姫山を登ることになるわけですが、高低差をうまく使い、天守までの道のりを迷路のように曲がりくねらせています。

こうした道の曲がり角には塀や櫓を建て、四方から攻撃が仕掛けられるように工夫がされています。

もちろん、道の途中にはいくつも門を設け、なかなか天守までたどり着けないようにしていました。
こうした工夫を、池田氏時代や本田氏時代に残したことで、見せる事を目的とした近世城郭の中でも、実戦的な縄張りを持つ城として現在も私たちを楽しませてくれています。

門の数、櫓の数

姫路城を守るために建てられた櫓の数は、61棟ありました。
これは、国内で2番目に多い櫓数です。

一番多かったのは、広島城の76棟だったんだとか。

姫路城内に現存する櫓の27棟は、国宝に指定されています。
どれも現存なので、見ごたえのあるものですが、本丸北側の腰曲輪に設置されている、イ、ロ、ハの渡櫓は、大きさといい、高さといい、見ごたえのある櫓です。

門の数は84門と、これも多くの門が設置されていたことが分かります。
姫路城では現在21の門がありますが、棟門、高麗門、埋門など、さまざまな形式があります。
門を通るごとに、形式の違いを楽しませてくれます。

訪れておきたい門として、三国堀右手にある「る」の門、「ぬ」の門があります。
「る」の門は、石垣の中に穴を穿って造る、埋門(うずみもん)形式の門になっています。
石垣に直接作っているため、目立ちにくく、寄せ手が城内へ入ってきても見つかりにくいようになっています。
本丸への近道にもなり、ここを通って「ぬ」の門を経て搦め手方向へ抜けることができます。

「ぬ」の門は門の上に二層の櫓が設置された珍しい構造になっています。
天守への近道になる「ぬ」の門は、三方が囲まれるようになっていて、寄せ手がここを攻めても、なかなか落ちないようになっていました。

まとめ

姫路城が国宝にふさわしい城として、魅力のひとつが内堀より中の縄張りにあります。
本丸までの厳しい防御施設は、きわめて実践的で、戦国時代の形を留めています。

また、61棟の櫓と84門を備えた城塞として、西日本でにらみを利かせ、徳川幕府を支えました。

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