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明智氏のいた明智城って、どんな城?

写真森

美濃国(現:岐阜県)の斎藤家に仕えた明智氏は、斎藤家の内紛に巻き込まれ、美濃を去る事になりました。

内紛とは、前・主君の斎藤 利政(さいとう としまさ)(道三:どうさん)と、利政の長男で、現・主君の斎藤 高政(さいとう たかまさ)(義龍:よしたつ)の確執でした。

斎藤 利政(道三)側に付いた明智氏は、長良川の戦いで敗北すると、居城の明智城を高政(義龍)軍に攻略され落城しました。

後に織田信長に使える、明智光秀(あけちみつひで)は落ち延びましたが、明智城とはどんな城だったのでしょうか?

二つある?光秀がいた明智城はどっち?

岐阜県に、「あけちじょう」とされる城は2か所あります。

一つは、恵那市明智町にある「明知城」。
もう一つは、可児市にある「明智城」。

明智町にあるから、恵那市の「明知城」の方が、明智氏の居城のように思えますが、高政軍によって落城した「明智城」は、可児市にある「明智城」です。

明智町は、明智氏発祥と言われる地ですが、その地にある「明知城」は、明知遠山氏の居城であり、土岐明智氏の流れを汲む、明智光秀らの城ではありませんでした。

では、どうして可児市に「明智城」があるのでしょうか?
それは、土岐宗家(ときそうけ)が長森城(現・岐阜市切通6丁目)に拠点を移したことにより、明智荘のある可児市に移転し、「明智城」を拠点としました。

築城されたのは、康永元年(1342)とみられ、高政(義龍)軍による落城が弘治2年(1556)になります。
214年もの間、改修、修復を加えながら明智氏の居城であり続けました。

明智城の縄張りは?城は堅牢だったのか?

現在の明智城は、主郭部が配水池として利用されており、原型を留めていないため、どのような城だったのか、よくわかっていません。

立地は、平地に突き出した丘陵上に築かれていて、美濃川一帯を見渡せる位置にあります。

城の縄張りとして出丸や曲輪が存在し、物見台を備え、それなりに防御設備が整った山城だったとみられています。

配水池のある主郭部以外は、散策路が整備されていて、ところどころに城に関する案内板があり、散策が楽しめるようになっています。

住所:岐阜県可児市瀬田1238-3

明智城へ行くには?駐車場はある?

可児市にある明智城へ電車で行くには、
名鉄広見線の『明智駅』で降り、そこから南に片道約1.5km移動した場所にあります。

車で行く場合、
城址専用の駐車場はありませんので、近くの『花フェスタ記念公園』の西駐車場(料金無料)にクルマを停め、徒歩で散策道を目指すと良いでしょう。

駐車場から西に約1.2kmの位置に、散策道の入り口があります。

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