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名城・名護屋城が、破却された理由とは?

名護屋城

支那(しな)大陸明(みん)帝国への遠征のため、
2度の遠征(文禄・慶長の役)の前線基地として
使われた肥前・名護屋城(ひぜん・なごやじょう)は、
秀吉が亡くなったために、遠征が中止となります。

大坂城よりも大規模だったといわれる名護屋城ですが、
その後、建物はもちろん、石垣の一部を崩し(破城)
その役割を終えます。

しかし、それだけの規模の城をなぜ、政治拠点として
利用せず、破棄したのでしょうか?

造られた理由については、こちら↓
肥前・名護屋城築城の理由とは?

城には、ふさわしい規模がある

もともと、遠征の前線基地や、
使節団へのアピールといった性格が強い名護屋城。

しかも、あの豊臣秀吉が肝いりで築城させた城なので、
目を見張るような城だったことでしょう。

ただ、天下は統一されたとはいえ、
まだまだ安定した世の中ではありませんでした。

全国の大名が名護屋城に集められましたが、
領地の経営を安定させたい大名もいたことでしょう。

秀吉が亡くなったことで、遠征は中止となり、
各地の大名も陣屋(じんや)を引き払って、
それぞれの領地に戻っていきます。

残された城は、10万もの兵が駐留した大規模なものです。

とても一地方の大名の手に負える代物ではありません。

維持するだけでも大きな費用がかかりますし、
もし城に立て籠もるようなことがあったとしても、
それを守る兵の数は少なすぎます。

城は、兵の数に見合った大きさというのがあるのです。

そして、名護屋城は建物資材は再利用されましたが、
政治の拠点として利用されることはありませんでした。

10万人規模の街の行方は?

名護屋城の周りには、駐留する兵が生活するための
店ができ、人が集まったといわれています。

その規模は約10万人といいますから、
ちょっとした街ができたわけです。

ところが、遠征が中止となり、兵が引くと、
街は姿を消しました。

それだけの規模の街が出来たのなら、
そのまま維持できそうな気がしますが、
なぜ姿を消したのでしょうか?

その答えは、地形にあります。

名護屋城が造られた場所は、平地の少ない場所で、
街道からも離れた場所にありました。

平地が少なければ、それだけの人数を賄う
田畑を作るには、狭すぎたことでしょう。

街道から離れていれば、物資の運搬もひと苦労です。

遠征をしていた当時から問題になっていた、
水不足にも定着しない要因はありました。

急に大きくなった街は、兵の消費をあてに集まった、
商業的な性質が強い街だったので、
その消費がなくなったのなら、他の場所を目指して
移動するのは自然の流れでした。

少しは残った人もいたかもしれませんが、
自然と街は消滅していきました。


[現在の名護屋城上空写真(Google Mapより)]

まとめ

明帝国への前線基地として整備された名護屋城ですが、
その規模が大きすぎたため、維持することは
考えられませんでした。

また、明帝国の報復を恐れ、
これ以上の遠征の意図が無いことを示すため、
すぐに破却したともいわれています。

なにより、秀吉が亡くなったことで、
国内の求心力が失われました。

他の大名にしてみれば、遠征どころではなく、
名護屋城に構う暇はなかったでしょう。

名護屋城の周りに出現した10万人規模の街も、
もともと立地に恵まれていたわけではありません。

商売の当てにしていた駐留兵もいなくなり、
当然のごとく消滅することになります。

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