肥前・名護屋城に10万人規模の街。その築城の理由とは?

”なごやじょう”と聞いて、多くの人が思い起こすのが、
愛知県にある「名古屋城」ですよね。
でも、同じ読みでも、佐賀県にも
名護屋城」がありました。

当時の国名「肥前国」から、
肥前・名護屋城ともいわれています。

豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命令で造られ、
その規模は、当時最大の城だった大坂城(現:大阪城)
に匹敵する
、大きな城だったといわれています。
また、各地の大名が集まった、稀有な城でもあります。

しかし、肥前・名護屋城が造られたのは、
佐賀県北部の海にかこまれた半島の中。
どうしてそんなところに、
大規模な城を造ったのでしょうか?

前線基地だけではない、力を誇示するための城

名護屋城が建てられた時期は、奥州の勇、
伊達政宗が軍門に下り、小田原の北条氏を滅ぼし、
天下を統一した後の事でした。

秀吉は、天下を統一した後、シナ(china)大陸の
明帝国の征服に乗り出します。
そこで、前線基地として造られたのが、名護屋城でした。

前線基地というのはわかるんですが、
そんな、大坂城よりも大きな城を造る必要って、
あるんでしょうか?

そもそも、安土城以降の「天守」を持つ城は、
”見せるための城”という性格が強いものでした。

もし、朝鮮半島からの反撃があると思っていたとしたら、
一か所に城を造るより、元寇の防塁のように、
海岸線に防壁を整備した方が効果は大きいでしょう。

秀吉は、海から見える場所に城を築くことで、
明帝国に対して権力を示す意図があったのかもしれません。

当時の姿を描いた絵「肥前名護屋城図屏風」を見ると、
海側から見たときに五層天守が堂々と見えるよう、
配置されている様子が分かります。

肥前名護屋城図屏風
(文化遺産オンライン)

名護屋城には、各地の大名の陣屋が設けられましたが、
これも使節が来たときに、全国を統一し、
大名たちを従えた姿を見せつけて、
力を示すためだったのとも考えられますね。

肥前名護屋城で不足していたものとは?

肥前・名護屋城は、地図で見てみると、
海に囲まれた”波戸岬”という丘陵を中心に築かれました。


名護屋城

平地は少なく、起伏のある場所柄で、
もともと垣添城(かきぞえじょう)があり、
築造には適していました。

とはいえ、垣添城とはその規模が違います。

大陸への進攻ということで、
各地から大名たちが集まりました。
城の近くにそれぞれ陣屋を建て、
多くの兵馬が集まります。

名護屋城周辺には、約10万人の兵が駐留したと
いいますから、ひとつの街ができたようなもの。

そうすると、そこで商売をする人たちも集まり、
これまた10万人規模の街ができたということです。

それだけの人数が集まると、確保するのに
困ることが出てきます。

それが””でした。

それぞれの陣屋に井戸を掘り、対策を立てていましたが、
常に不足気味で、水をめぐる騒動が度々起こったようです。

まとめ

大坂城よりも大規模だったといわれている
「肥前・名護屋城(ひぜん なごやじょう)」は、
明帝国への進攻のため、国内の前線基地として
整備された城でした。

明帝国へ直接渡るには、当時はまだ危険が
大きかったので、半島を経由していく手はずでした。
その前線基地として選ばれたのが、波戸岬にあった、
垣添城の地です。

海から見える位置に天守を配置し、周りには
各地の大名が陣屋を構えましたから、たいへん立派な
城だったことでしょう。

たくさんの兵が駐留することで、周りには
10万人規模の街が出現しましたが、
水不足に悩まされることになります。

現在は破却された城跡が整備され、
見学することができます。

ミュージアムで、タブレットの貸し出しがあり、
広大な跡地で、案内してくれるサービスがあります。

なかでも、タブレットをかざすと当時の様子を映し出す
バーチャル名護屋城」は人気の高いサービスです。

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