姫路城は、最上階に刑部(長壁:おさかべ)大神を奉った刑部神社がある珍しい城です。
なぜ、こんなところに神社が祀(まつ)られているのかというと、地元に伝わる、ある妖怪伝説が関係していました。
かの有名な、剣豪・宮本武蔵(みやもとむさし)も関わっているという伝説とはいったいどんなものでしょうか?
妖怪伝説?宮本武蔵と姫路城
宮本武蔵といえば、巌流島で佐々木小次郎(ささきこじろう)と決闘の際、わざと遅れてやってくることで相手を焦らし、勝利を得たという話が有名です。
真剣での決闘を生涯に何度も行い、一度も負けたことがなく、後世に「五輪の書(ごりんのしょ)」を残しました。
その宮本武蔵が、姫路城の伝説にどのように関わったのでしょうか?
関ケ原の戦い(1600)が始まる少し前、木下家定(きのしたいえさだ)という大名が城主の頃の話です。
腕は立つものの、誰にも仕えていなかった武蔵は、名前を変えて足軽の一人として奉公していました。
このころ、天守に妖怪が出るという噂があり、夜の見張り番はみんな恐れてしまいました。
これでは夜の見張りに支障が出てしまいます。
ところが、名前を変えた武蔵だけは、平気で夜の番を務めていました。
そんな様子を、もしや剣豪の武蔵ではないかと勘繰られ、正体がばれてしまい、妖怪退治を命じられます。
武蔵は、妖怪を退治することになり、ある夜、明かりを持って天守に上っていきました。
三階の階段に差し掛かかった時、突然激しい炎が回りを取り囲み、地鳴りや雷が轟(とどろ)きました。
武蔵はすぐさま、切りかかろうと太刀に手を掛けた途端、ピタリと炎は消え、轟音(ごうおん)も止みました。
四階に登ると、先ほどのような炎と轟音が鳴りますが、恐れずに太刀に手を掛けると、やはり不可解な現象がピタリと止みました。
とうとう最上階までやってきた武蔵は、妖怪の正体を突き止めようと朝まで待ちますが、そのうち夜が明けてきます。
眠気に誘われ、うつらうつらしていると、どこからともなく、女性の声が聞こえてきました。
聞けば、長壁姫(おさかべひめ)といい、城の守り神とのこと。
もともと、本丸のある姫山に刑部神社(おさかべじんじゃ)があったのですが、築城の際に移動させたため、妖怪が天守に住み着いたと言うのです。
しかし、武蔵が逃げずに登ってきたことで、妖怪は逃げ出したと姫は言います。
姫は、妖怪を追い出した礼として、武蔵に郷義弘(ごうのよしひろ)という名刀を与えました。
以上が、姫路の地元に伝わる、宮本武蔵と姫路城にまつわる伝説です。
実は、この話には後日譚があります。
この怪異を引き起こしたのは、天守に住むタヌキが化かしたものでした。
武蔵の前に現れた姫もタヌキが化け、木下家の家宝である刀を武蔵に渡し、騙そうとしたというのです。
しかし武蔵は正体を見破ってタヌキを退治し、罪にも問われませんでした。
時代は下り、長壁姫は再び現れることになります。
どんな物語があったのでしょうか?
天守内部に祀られる刑部神社
天守の最上階にある神社を奉ったのは、池田輝政(いけだてるまさ)が城主の頃でした。
池田輝政は、1601年から1609年にかけて、姫路城を中世平山城から大規模な近代城郭に造り変えた大名です。
その姫路城天守が完成するころ、不可解な出来事が起こったといいます。
そして、輝政本人も病に倒れてしまいます。
これを町の人々は刑部神社の祟りだと噂しました。
城には、輝政の症状を回復させる方法が書かれた手紙が届きます。
その手紙には、天守内と、「と」の門に刑部大神を祀る神社を建て、護摩祈祷を行う事が書かれていました。
その通りにすると、一時的ではありましたが、輝政の病状は回復したということです。
その時に建てた刑部神社が、天守内に今も残っているのです。
しかし結局、輝政は亡くなり、池田家は領地を変わることになります。
刑部神社(おさかべ)について調べてみると、以下のように書かれていました。
どうやら、荒魂(あらみたま)を祀った神社のようですね。
刑部神社を姫山から移したことが祟りの原因だとすると、姫山から移した秀吉(ひでよし)が祟られないのは不思議です。
池田輝政は、織田信長(おだのぶなが)に仕えた武将でしたが、没後は豊臣秀吉に仕え、信頼もされていました。
それだけに徳川家へ鞍替えしたことで、秀吉の祟りではないかという噂も立ったということです。
それにしても、刑部(おさかべ)が長壁(おさかべ)へと字が変わったのは、姫路城の城壁が白漆喰塗りで長壁が目立つため、そのようになったのかもしれませんね。
まとめ
姫路城最上階に祀られている刑部(長壁:おさかべ)神社には、妖怪にまつわる伝説がありました。
一つは、今のような姿になる前の姫路城で、剣豪・宮本武蔵さ関わっていました。
内部は五階だったのでしょうか、当時も立派な天守だったようですね。
妖怪の仕業であったとも、タヌキが騙したともいわれる伝説です。
そして、池田輝政が現在の姿に建て替えた時の話です。
怪異を鎮めるために、城に届けられた手紙が示す通り、天守最上階に奉られることになりました。
祟り話とは穏やかではありませんが、現在でも神社が残されているということは、当時本当に怪異があったのでしょうか?
怪異とはいわずとも、何かあったのかもしれませんね。