大河『べらぼう』で歩く江戸城とは?

江戸城天守台

江戸の出版プロデューサー・蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)を主人公に描く大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』を“舞台装置”から楽しむ視点として、江戸城を掘り下げます。

蔦重や山東京伝のヒット作と弾圧、その背後で動いた幕政の意思決定の場が、まさに江戸城でした。

だれが江戸城を築いた? そして城はどう変わった?

中世の江戸城は、室町後期の武将・太田道灌(おおたどうかん)が長禄元年(1457)に築いたのがはじまり。

学識にも優れた名将として知られ、のちの徳川入府の土台になりました。

江戸幕府が開かれると、家康〜家光期にかけて巨城へ拡張。しかし明暦3年(1657)の「明暦の大火」で天守など主要建物を焼失し、天守は以後再建されません。

今日、東御苑に残るのは巨大な天守台(基壇)で、上に登って城下の地形を体感できます。

『べらぼう』の時代に、江戸城で起きていたこと

① 田沼政権から松平定信へ──政権交代の震源地

天明4年(1784)、江戸城「中之間」で若年寄・田沼意知が旗本・佐野政言に斬りつけられる刃傷が発生。

動揺は政局に波及し、天明7年(1787)の天明の打ちこわし(都市暴動)も重なって、田沼派が退潮。城中枢を握った松平定信が老中首座となり、引き締めの寛政の改革を断行します。

② 出版統制と蔦屋・京伝

定信政権は「出版取締り」を強化。寛政2年(1790)以降、好色・風刺の強い本や華美な摺りを規制し、寛政3年(1791)には山東京伝の『仕懸文庫』『青楼昼之世界錦之裏』『娼妓絹籭』などが摘発。

京伝は手鎖50日、版元の蔦屋重三郎は身上半減という重罰を受けます。それでも蔦屋は方向転換して学術書(物の本)や浮世絵を強化し、喜多川歌麿・東洲斎写楽らの大仕事へつなげました。

要するに、『べらぼう』で描かれる“粋と反骨”の勝負は、江戸城で発せられる政策(引き締め)との綱引きでもあったわけです。

いま見に行ける“江戸城”の手触り(皇居東御苑)

江戸城本丸・二の丸・三の丸の一部は、皇居東御苑として公開。

入園無料、入退園は大手門・平川門・北桔橋門から。季節で開園時間が変わるので、訪問前にチェックを。

見どころ(『べらぼう』時代を感じる順路)

大手門→同心番所:本丸の“関所”。ここで大名の供を見張った下級役人・同心が詰めていました。
百人番所:城内最大級の検問所。**鉄砲百人組**(伊賀・甲賀・根来・二十五騎)が交代で守衛し、約100名規模で昼夜警備。建物は**江戸時代からの現存遺構**として知られます。
大番所:本丸最奥への最後の関門。三つの番所(同心・百人・大番所)が揃って現存するのが江戸城の“渋い”強みです。
天守台:再建されなかった天守の“土台”。石垣のスケールや積み方を間近で。
富士見櫓:現存する三重櫓。天守の代わりに城の象徴となりました。

東御苑は昭和43年(1968)公開。城跡の静けさの中に、情報と統制のセンターだった「江戸城の機能美」がそのまま残っています。

初期江戸城の“輪郭”を地図でイメージ

以下の図は、古地図の対照にもとづき初期の江戸城の推定範囲を衛星地図に赤線で重ねたものです。

蔦屋重三郎という人物

吉原の細見(ガイド)や黄表紙のヒットで頭角を現し、天明3年(1783)に日本橋・通油町へ進出地本問屋株を得て出版界の中心地に本拠を置き、山東京伝らを推して“江戸のメディア”を更新しました。

弾圧後は学術系へも比重を移し、浮世絵では歌麿・写楽を大きく世に出します。

まとめ:『べらぼう』を“江戸城から”観る

・築城の起点は太田道灌。徳川期に巨大城郭化し、1657年の大火以降は天守不在のまま機能重視の城に。
1780年代後半の江戸城は、田沼→定信へ政権交代の舞台。寛政の改革で出版統制が強化され、蔦屋&京伝は処罰と再起を経験。
東御苑では、当時の“検問インフラ”だった三つの番所天守台をいまも体験できる。無料・時間制で公開。

『べらぼう』のワンシーンに出てくる「取締りの空気」や「メディアの熱」は、江戸城という“国家のスイッチボード”を通して増幅されました。

次に東御苑を歩くときは、番所を抜けて本丸へ向かう“登城動線”をたどりながら、蔦重たちが挑んだ風刺と表現の最前線を思い浮かべてみてください。きっとドラマがもっと立体的に見えてきます。

大河ドラマ「べらぼう」の世界をもっと知りたい場合はこちらがオススメ!

NHK大河ドラマ 歴史ハンドブック べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~: 蔦屋重三郎とその時代
大河ドラマ「べらぼう」

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