久能山城(静岡)を歩く:信玄の山城から家康の眠る聖地へ

久能城跡

だれが久能山城を築いた?どんな人物?

久能山城(久能城)は、戦国末の永禄11年(1568年)、武田信玄が駿河へ侵攻した際に、久能寺を移転させて築いた要害堅固の山城が起点です。

現地の由緒や地域史料でも、信玄が家臣に縄張りを命じて山城を築かせたことが述べられています。

さらに背景をさかのぼると、今川氏の家督争い(1536年)に関連する動きがこの地で起きており、のちに武田方の海上監視・沿岸拠点として強化されました。

久能山城で起きた歴史的できごととは?

徳川期の再整備(1607年ごろ)
家康が大御所として駿府に移ると、久能山はふたたび堅固な山城として整備され、本多上野介らが守備に就いたと伝わります。

家康の埋葬と東照宮創建(1616–1617)
慶長20年(1615年没の年次表記に諸説あるが、一般に1616年没)の後、遺言によりまず久能山に埋葬。翌元和3年(1617年)に社殿が造営され、久能山東照宮が成立します(のちに霊廟の中心は日光へ、ただし久能山にも御神霊が祀られる)。

つまり久能山は、武田信玄の山城徳川の要地家康の神域という三段跳びの歴史をもつ“戦国~近世転換点”の舞台です。

言い伝え・伝承(家康三霊廟の“謎”)

家康の墓所は三か所ある?という有名な話題──久能山・日光・三河の大樹寺という“三所霊廟説”がしばしば語られます。

宗家が毎年4月17日に久能山にも参拝する慣行や、明治までの厳重な警備などから「遺体はいまも久能山に」とする見解・伝承も根強いのが面白いところ。史実と信仰が重なって物語性を帯びるのが久能山らしさです。

現在の久能山(久能山東照宮)を歩く楽しみ

国宝の社殿
1617年造営、極彩色と金箔が映える桃山風の豪奢は必見。2010年に本殿・石の間・拝殿が国宝に指定されました。

表参道の石段は“1,159段”
山下の石鳥居から1,159段、地元では語呂で「いちいちご苦労さん」。ロープウェイ(昭和32年開通)以前はこの石段だけが参拝路でした。途中の一の門(909段地点)の眺望も最高。健脚派はぜひ挑戦を。

見どころと参拝動線
駿河湾を望む参道、梅林、社殿、そして御廟所(家康公墓所)へ。参拝・見学は1.5~2時間を見込むと余裕があります。

久能山城の比定図

 下の図は、現在の航空写真に久能山城の古地図を重ね合わせたものです。

 赤線で囲んだ範囲が当時の城域と考えられるエリアです。こうして見ると、山の尾根全体を利用した典型的な山城であったことがわかります。

 参道や社殿が現在でも城郭構造を踏襲しており、往時の姿を想像しながら歩くのも楽しみのひとつです。

久能山城域

大河ドラマ「べらぼう」(蔦屋重三郎)との“つながり”

「べらぼう」は、江戸後期の出版人蔦屋重三郎を主人公に、浮世絵師や戯作者を次々と世に送り出した“江戸のコンテンツ産業”の物語。

久能山は徳川権威の象徴としての東照宮が置かれ、江戸の秩序・文化政策の源流を体感できる場所。豪華絢爛の社殿意匠(桃山様式)は、のちの江戸の審美・出版物の装飾感覚に通じるものを感じさせます。

“江戸の文化が花開く土台には徳川の権威と平和がある”──久能山に立つと、大河の世界観を歴史地理的に“身体で”理解できます。

久能山の土地名物はこれ!

久能の「石垣いちご」
明治期に始まった伝統の石垣栽培石の蓄熱で冬でも甘く熟すのが特徴で、12月~5月ごろはいちご狩りも人気。海沿いの「いちご海岸通り」一帯に観光農園が並びます。

老舗の元祖「常吉いちご園」や各農園の営業情報もチェックを。

まとめ:戦国の“要害”から“徳川の聖地”、そして江戸文化への扉へ

武田信玄が1568年に山城を築く徳川が要地として再整備家康がまず久能山に葬られ、1617年に東照宮が成立。この“地層”を歩けるのが久能山城(東照宮)の魅力です。

1,159段の石段国宝社殿は体験価値が高く、石垣いちごは旅の甘いご褒美。

・大河「べらぼう」で江戸の出版文化に惹かれた方こそ、徳川権威の原点を感じられる久能山へ。江戸文化の“始点”に触れてから、作品世界をもう一度味わうと、物語の奥行きが変わります。

付記(参拝ヒント)

・石段コースは歩きやすい靴で。日本平ロープウェイの併用も便利です。
・館内(宝物館)では、家康ゆかりの名品も展示。最新の公開状況は公式で要確認。

久能山東照宮の宮司さんが書いた書籍はこちら

久能山東照宮宮司 奮励の記憶

奮励の記憶

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