ドラマのタイトルにもなった”真田丸”。
名前の由来はすでに知っているかと思います。
大阪冬の陣において、守りの薄い大阪城の
南東にある虎口(こぐち)に、
真田幸村(さなだゆきむら)が築いた曲輪のことでした。
この曲輪は、馬出曲輪(うまだしくるわ)
といって、主に東国で発達しました。
守備にも、攻撃にも適した設備で、
”真田丸”は何度も徳川軍の攻撃を阻止しました。
東国で発生した馬出とは、
どんな特徴をもつものだったのでしょうか?
守りと攻めを可能にした設備
城の攻防は、入り口である虎口(こぐち)の防衛が
重要になります。
虎口を落とされると、容易に寄せ手が
城内に入り込めると同時に、守備側は、
より本丸に近い曲輪に退却しなければなりません。
これは大きな痛手になります。
そこで、虎口の周りには、横矢掛りや、
枡形といった工夫がなされるようになるのですが、
東国では特に、”馬出(うまだし)”が考案されました。
馬出は、虎口の外側にある堀の、
さらに外に設けられるもので、半円状や方形に
土塁と堀を築き、正面からの攻撃に備えたものです。
馬出からは、背面の堀に沿って複数の出入り口があり、
土塁に守られながら打って出ることが可能でした。
東国で考案されたワケは、平地が多く、
馬の産地でもあったことに起因します。
西国にも馬はいますが、山岳が多く、
機動力を活かした戦法が、
そこまで発達しなかったのです。
東国には、馬の機動力を活かした戦法を
得意とした武将がいました。
甲州(現在の山梨県)を中心に勢力を広げた
”武田信玄(たけだしんげん)”です。
戦の思想を”風林火山”に求め、
とくに騎馬隊の扱いに長けていたといわれています。
馬出ができることによって、防御側にも関わらず、
積極的に打って出ることが可能になります。
騎馬隊も、虎口から出るところを
狙い撃ちされないですし、
馬出でいったん陣を整えることができました。
虎口正面に土塁と堀があることで、
寄せ手を簡単に近づけず、
敵が疲れて退却しようものなら、
馬出から騎馬隊が打って出たのです。
甲斐武田氏の居館”躑躅ヶ崎館”
騎馬隊の扱いに秀でていた、甲斐武田氏は、
「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)」に
本拠を置いていました。
平城(ひらじろ)風の館で、時代を追う毎に
整備拡張され、いくつもの曲輪ができたようです。
広さは、東西約200メートル・南北約190メートル
におよぶ、連格式の曲輪が存在しました。
市街地開発で破壊されてしまった遺構もありますが、
比較的良好な状態で、堀や土塁がのこっています。
城の正面である大手口外側には、
丸馬出の遺構が発掘されています。
ここから信玄公も出陣していったんでしょうね。
現在は、武田氏を祀った「武田神社」が整備されていて、
参拝することができます。
その武田氏であっても、詰めの城を整備していました。
躑躅ヶ崎館から北にある要害山に、
”要害山城”を築城し、
躑躅ヶ崎館と連携して守りを固めました。
ちなみに、山梨県の銘菓「信玄餅」は、
武田信玄が出陣の際に、非常食として携帯したんだとか。
まとめ
東国を中心に、馬の機動力を活かした設備が
考案されました。
その設備が”馬出(うまだし)”です。
虎口の正面に、土塁と堀を備えた設備は、
攻守バランスの取れたもので、
武田氏の居館にも備えられていました。
その武田氏の配下であった真田幸村は、
大阪に立て籠もる際、”馬出曲輪”を築きます。
大阪城は、南にある大手側に平地が広がり、
防御上の弱点でした。
防御にも、攻撃にも都合の良い曲輪で、
何度も徳川軍の攻撃を食い止めました。
後にその時の幸村の奮闘を称え、
”真田丸”と呼ばれたのです。