竹田城は雲海に浮かぶ幻想的な城として紹介され、「天空の城」や「日本のマチュピチュ」として呼ばれ、一躍有名になりました。
100名城にも選ばれていて、山頂にそびえる石垣がとても印象的ですね。
いったい、どんな城なのでしょうか?
なぜ山頂に築城されたのか?
兵庫県の、真ん中より少し北東寄りに位置する、朝来市(あさごし)和田山町に”竹田城”は存在します。
竹田城は、標高354mの古城山の山頂に築かれていますが、こんな高い城に近代的な総石垣造りの城が建っていたなんて、珍しいですよね。
どうして、こんなところに、総石垣造りの城が造られたのでしょうか。
築城が確認されている年代は古く、今から約590年前の永享3年(1431年)には、存在していました。
このころの竹田城は、他の山城と同じように、木造の塀や櫓、堀などで守りを固めた城でした。
山頂にあるため、見晴しが良く、山の東側を南北に流れる「円山川」が天然の堀を形成していました。
またこの地は、南に姫路、北に豊岡、東に丹波に抜けられる交通の要衝であることも、築城の理由として考えられます。
そして、いくつかの支城と繋がって、城ネットワークを形成していました。
今のような、「総石垣」に改造されたのは、豊臣秀吉の配下で”赤松広秀”が城主になってからの事です。
改築は、築城から160年経った、1590年ごろです。
思えば、長い間戦乱の時代が続いてるんですね。
竹田城が総石垣の城に改修された理由として、次のような要因が考えられます。
特に、銀山は重要な資金源になりますから、力を入れるのもわかります。
竹田城は慶長5年(1600年)に廃城になりますが、名護屋城のような”破城”が行われなかったことから、400年もの間、非常に良好な状態で石垣が残っています。
合戦記録は?
竹田城は総石垣造りになってからの合戦記録が無いため、どれくらいの防御能力があるのか不明です。
しかし、城の規模は南北約400m、東西約100mと大きな城域を誇ります。
石垣の高さも10mに近く、横矢がかりも設けられていて、
さらに大手門は虎口になっており、当時最先端の築城技術が使われています。
もし、合戦があったとしても、簡単には落城しなかったと推測できます。
竹田城の見どころは見事な石垣
竹田城には建物の遺構は残されていません。
あるのは、見事なまでの石垣と堀。
それがまた、幻想的な雲海に囲まれることで、遺跡としての価値を高めました。
縄張りは、山頂の尾根を利用していて、本丸を中心に、南北と西に飛び出るように曲輪が形成されています。
その形は虎が伏しているようにも見えるので、別名”虎伏城”とも呼ばれます。
(「Google map」より)
今なら、ハンドスピナーのようにも見えますね。
石垣は野面積みですが、技術の向上によって、10mを超える高さがあります。
山頂に築かれた城のなかでも、屈指の規模の城です。
”横矢掛り”を意識した縄張りや、大手口付近、本丸の石垣はしっかりと見ておきたいところです。
堀は、山城の特徴である、”畝状竪掘(うねじょうたてぼり)”が残っています。
ただし、竹田城を訪れる来場者が増えて、石垣に崩落の恐れがでるなど、これまでとは環境が変わってきています。
(改修は行われています)
入場制限や、時間制限などありますので、前もって情報を収集しておきましょう。
雲海が見ることのできる時期は?
一躍有名となった雲海の城ですが、いつでも雲海がでているわけではありません。
雲海が発生する条件が満たされたとき、運よく見ることができます。
雲海が発生するメカニズムは、次のようなという条件が必要です。
2.放射冷却で冷やされる
3.無風で空気が流れ込む、出ない
4.空気中の水分が納和状態になる
5.さらに冷やされ、水分が霧状になる
湿度が高く、放射冷却されやすい時期の朝が最適というわけですね。
竹田城のそばには円山川が南北に流れているので、湿度は上がりやすく、冷やされやすい、最適な場所です。
竹田城では、11月から12月初旬にかけての朝8時前までが最も雲海が現れる期間となっています。
実際に見ると、感動もひとしおだと思います。
なかなか行くことができない方のために、公式ホームページでは、ライブカメラの映像を見ることができます。
まとめ
「天空の城」、または「日本のマチュピチュ」として有名になった竹田城は、非常に良好な状態で残されている、近代城郭の山城です。
交通の要衝にあり、生野銀山からも近いことから、総石垣造りで天守を持つ城に改修されました。
雲海が出る時期は幻想的な雰囲気に包まれますが、天候や気象の状況に左右されるため、運が良ければ見ることができます。
入城可能な時期や時間が決められていますので、必ず確認しておきましょう。