誰が二条御新造を築いた?その人はどんなことをした?
二条城の前身にあたる「二条御新造(にじょうごしんぞう)」は、織田信長の命によって築かれました。
場所は平安京の中心に近い二条通界隈で、信長が京都での権威を誇示するための政庁兼居館として機能しました。
特に注目すべきは、1570年代に信長が将軍・足利義昭を奉じて入京した後、義昭との関係が悪化した際に拠点とした点です。
この二条御新造こそが、信長の「天下布武」の意思を京都で実際に示した舞台だったのです。
後に豊臣秀吉もこの地を重視し、兄弟である秀長とともに京都での政務や饗応の場に利用しました。
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」でも、二人が信長の遺志を継いでいく過程で、この御新造が象徴的に描かれることは間違いないでしょう。
二条御新造でどんな出来事があった?
二条御新造で最も知られる出来事のひとつが、織田信長と将軍・足利義昭との確執です。
足利義昭が信長の影響力を嫌い、各地の大名に「信長包囲網」を呼びかけた際、信長は二条御新造を拠点に義昭と対峙しました。
結果として義昭は京を追放され、室町幕府は事実上滅亡します。つまり二条御新造は、日本の中世から近世への大転換点を象徴する場所といえるのです。
その後も、信長亡き後には豊臣政権がこの地を政治の舞台に引き継ぎ、秀吉・秀長兄弟が京での権威を維持するために利用したと伝わります。
まさに「天下人」の居城にふさわしい場面が繰り広げられた城でした。
二条御新造にはどんな言い伝えがある?
二条御新造には、「幻の黄金御殿」と呼ばれる伝承があります。
信長が権力の象徴として、豪華絢爛な金箔張りの装飾を随所に施したといわれています。
訪れた公家や諸大名は、そのまばゆい光景に圧倒され、「これぞ天下人の館」と語り継いだと伝わります。また、一説には信長が上洛する天皇を迎えるために御新造をより華麗に整えたともいわれています。
さらに、信長の死後、秀吉が二条御新造を政庁のひとつとして用いた際、秀長が政治実務を取り仕切ったため「二条は秀長の才覚が輝いた場所」との逸話も残されています。
現在その建物は残っていませんが、京都の人々の間では「信長の幻の御殿」として語り継がれています。
二条城は現在どのようになってる?
現在の二条城は徳川家康が築いたもので、二条御新造の跡地に整備されました。
世界遺産にも登録され、観光名所として国内外の人々を魅了しています。
二の丸御殿の障壁画や庭園は江戸初期の華やかさを伝えており、往時の政治的緊張感と豪華さを感じさせてくれます。
初期の二条御新造そのものは現存しませんが、発掘調査や古文書によってその存在が裏付けられており、歴史ファンの間では「幻の二条御新造」として特別な関心を集めています。
二条城がある土地の名物はなにがオススメ?
二条城の周辺といえば、やはり京菓子の名店が多いことで知られます。
なかでもおすすめは「八つ橋」や「生八つ橋」で、観光の定番土産として人気です。また、近隣には老舗の和菓子店が点在し、茶道文化とも結びついた上品な味わいが楽しめます。
さらに、地元の人々に親しまれる「にしんそば」もぜひ味わってほしい一品です。
江戸時代から京都の町に根付く名物で、歴史散策と合わせて楽しむと二条城観光がより深みを増します。
二条城に関するまとめ
二条御新造は、織田信長が京都で権威を示すために築いた「天下人の象徴」であり、豊臣秀吉・秀長兄弟の時代にも政治的な舞台として受け継がれました。
黄金に輝く御殿の伝承や、義昭追放という歴史の大事件を見届けたこの城は、日本史の大きな転換点を象徴しています。
現在は徳川家康の二条城がその名を残し、世界遺産として人々を惹きつけています。大河ドラマ「豊臣兄弟」で、この幻の御新造がどのように描かれるかも注目のポイントです。
二条城を自宅で飾れる!
【ファセット】ペーパークラフト日本名城シリーズ1/300 二条城二の丸御殿(Amazon)