第一次上田合戦をうまく凌いだ真田昌幸でしたが、
その後再び、徳川家と本拠地上田で戦うことになります。
今度は、慶長5年(1600年)に起きた、
東西分かれての天下分け目の戦い
”関ヶ原の合戦”に関係した、大合戦でした。
徳川軍は、時期将軍の座を約束されていた、
徳川秀忠(とくがわひでただ)を大将として、
その数38,000。
対する真田軍は、3,000人余り。
およそ12倍を超える兵力差がありました。
この差をどのようにして跳ね返したのでしょうか?
絶対的不利な状況をひっくり返す智略
第一次と同様、真田軍は上田城、戸石城に兵をおき、
徳川軍を迎えます。
前回と違い、頼みとなる上杉氏は会津に
転封されていたため、援軍は望めません。
さらに、開始直前に戸石城を無血開城し、
徳川軍に明け渡しています。
これには理由がありました。
第一次征伐のあと、徳川家康は真田家の戦上手を認め、
距離を縮めていました。
しかし、昌幸と信繁は豊臣方へ味方し、
信之は徳川方にと、分かれることになったのです。
信之は徳川軍として参加し、戸石城攻略の命を受けて
戸石城に迫りました。
戸石城には信繁(幸村)が守っていましたが、
同族同士の戦いを避けるため、あえて明け渡したのです。
美談ですが、これで圧倒的に不利な状況となりました。
上田城に迫る徳川軍は、前回の失敗を避けるため、
刈取り前の稲を刈り、兵糧攻めの構えを見せます。
でも本当は、そこまでゆっくりしている時間は
ありませんが・・
真田軍もそれは承知のことです。
すぐさま数百の兵で出撃し、
刈り取っている兵を襲います。
そこを狙って、徳川軍は攻撃を仕掛けます。
真田軍は抵抗を試みますが、衆寡敵せず、
敗走しはじめます。
まさにここを好機とみた徳川軍は、
上田城へとなだれこみます。
しかし、今回も罠が仕掛けられていました。
まんまと大手に押し寄せる徳川軍に対し、
門を開き、鉄砲と弓矢を降り注いだのです。
今回は寄せ手の人数も多いため、
さらに混乱を招いたことでしょう。
進退がままならず、被害を拡大させます。
一方、徳川軍の本陣は、染谷台という台地に
陣をとっていました。
そこに、戸石城がある東北方面から、
真田軍が襲い掛かります。
前日に上田城を抜け出した、
信繁率いる200の兵が、
密かに迂回して潜んでいたのです。
これには秀忠もただ逃げるばかり。
本陣は混乱し、退却を始めます。
そこへ、追い打ちをかけるように、
濁流が襲い掛かります。
この濁流は、神川を堰き止めておいた水で、
昌幸の計略でした。
散々に打ちのめされた徳川軍は、小諸城まで退き、
そこで陣営を立て直しを図ります。
その時、家康から秀忠に宛てて、
関ヶ原へ急ぐよう督促がきたため、
上田城の攻略を諦めることになりました。
現在の上田城
真田氏が籠城し、大軍を破った上田城は、今も残ります。
市街地化している部分もありますが、
堀や縄張りが比較的良好な状態で見ることができます。
ドラマの”真田丸”効果が大きかったのか、
本丸の隅櫓や門が再現されているので、
見どころいっぱいです。
一般の駐車場が二か所あるので、安心していけますね。
ただ、本丸に近い場所にある駐車場は、
イベント会場にもなるので、
その時は北側の駐車場を利用することになります。
城だけでなく、ちょっと街にも足を延ばしてみると、
上田高校がありますが、ここは藩主の居館跡で、
方形館の面影が残っています。
まとめ
徳川による第二次上田攻略も、一次と同様、
真田昌幸、信繁親子によって退けられました。
同じようなパターンで退けていますが、
戸石城を使えない不利な状況で、
よくも勝てたものだと感心しますね。
「敵を知り、己を知れば、百戦して危うからず」
といいますが、地の利を活かして
敵の弱い部分をうまく突いたのでしょう。
徳川方の時間切れで引き上げた戦いですが、
そもそも真田氏は、徳川勢の牽制のために
上田に戻っていますから、
足止めすることが目的だったのです。