大河ドラマで話題!田沼意次とは?
2025年放送のNHK大河ドラマ『べらぼう』では、江戸中期に活躍した人物が次々と登場しています。その中でも特に注目されているのが、田沼意次(たぬま おきつぐ)です。ドラマでは、商業や文化を重視した改革を進め、庶民にも恩恵をもたらそうとした実力派政治家として描かれています。
従来「わいろ政治」「腐敗」というイメージが強かった田沼意次ですが、近年はその評価が見直されつつあり、ドラマの中でもこれまでとは違った魅力が描かれているのが印象的です。
そんな田沼意次が、実際に城主として築き上げた城が相良城(さがらじょう)です。この記事では、ドラマをきっかけに注目される田沼意次と、彼が残した城の歴史を紹介します。
誰が築いた城?田沼意次と相良城
相良城を近世城郭として本格整備したのは、ほかでもない田沼意次です。
将軍・徳川家治の信任を得て老中として政治の中枢を担った意次は、重商主義的な政策で全国の流通を活性化させ、江戸経済の近代化に挑みました。その拠点の一つが、駿河国相良(現在の静岡県牧之原市)でした。
意次は明和5年(1768)ごろから、三重の天守や複数の櫓を備えた本格的な城づくりを推進しました。城下町の整備や港湾の拡張、そして田沼街道の整備も進め、相良を海陸の要所へと成長させたのです。
ドラマ『べらぼう』の世界観で描かれる田沼意次の先進的な施策が、この城とその周辺でも息づいていたことがわかります。
どんな出来事・言い伝えがある?
しかし、田沼意次の華やかな時代は長く続きませんでした。天明の大飢饉や政敵の台頭によって田沼派は失速し、将軍家治の死後には一気に失脚へと追い込まれます。
その結果、家督を継いだ孫・意明は陸奥下村へ減転封され、天明8年(1788)に相良城は徹底破却されることとなりました。完成からわずか数年で消えたこの城は、まさに“まぼろしの城”と呼ぶにふさわしい存在です。
また、相良にはユニークな伝承も残っています。困りごとに現れては知恵を授ける「智恵貸の翁」という人物がおり、相良城の三重櫓を引き倒す際に工法を教えたと伝わります。
その正体は、発明家として名高い平賀源内だったという説もあり、歴史ロマンを感じさせる逸話です。大河ドラマにも登場する平賀源内との意外なつながりが、こうした伝承から垣間見えるのも興味深いところです。
現在の相良城はどうなっている?
天守や櫓は残っていないものの、城の痕跡は現在も市街地に点在しています。
本丸跡には牧之原市史料館が建てられ、二の丸は相良小学校、三の丸は相良高校として活用されています。訪れると、往時の城下町の名残を感じることができます。
特に注目したいのが、海と城を結ぶ外濠に設けられた船着場、仙台河岸です。ここは仙台藩主・伊達重村が寄進した石で築かれた石垣が今も残り、かつては千石船が直接横付けできたと伝わります。
現存する数少ない遺構として、相良城の海城としての機能を今に伝えています。
現代地図と重ねた相良城域
下の画像は、現在のGoogleマップに古地図を重ね合わせ、当時の相良城の城域を赤線で示したものです。古地図は著作権の都合上削除していますが、赤線の範囲から当時の縄張りが確認できます。
本丸は現在の牧之原市史料館周辺、二の丸は相良小学校、三の丸は相良高校が位置するエリアに該当します。川と海を活用した防御と流通を兼ね備えた構造で、港と直結する海城としての姿が浮かび上がります。
古地図は聖心女子大学図書館デジタルギャラリーよりご覧になれます。
『べらぼう』と相良城のつながり
ドラマ『べらぼう』では、田沼意次が実際にどのように政治を動かし、何を目指していたのかが描かれます。その舞台背景として、相良城は田沼意次の理想を具現化した場所といえるでしょう。
現代の街並みを歩きながらドラマの場面を思い浮かべると、江戸時代の息吹が一層リアルに感じられます。
まとめ
・ 相良城は田沼意次が築いた城。 商業と流通の拠点として整備された海城だった。
・ 短命の名城。 田沼意次の失脚後、1788年に破却され、天守は姿を消した。
・ 現存する痕跡。 牧之原市史料館や仙台河岸の石垣が当時を伝えている。
・ ドラマとのリンク。 『べらぼう』をきっかけに、田沼意次や相良城への興味が高まっている。
大河ドラマをきっかけに歴史への関心が高まる今こそ、相良城を実際に訪れてみてはいかがでしょうか。
ドラマで描かれる世界と、現地に残る史跡を重ね合わせて歩くことで、田沼政権の光と影をより深く感じられるはずです。
田沼意次についてもっと知りたい人は、こんな書籍がオススメです。