籠城戦になるときは、守備側に兵が少ないといった、
不利な状況にあります。
少ない兵で、いかに相手に断念させるか。
守備側は、そこに知恵を絞り、計略を立て、
相手を翻弄しようとします。
上手くいった話をきくと、
なんだか爽快な気持ちになりますね。
かつて楠木正成公が”千早城の戦い”で
大軍を翻弄したように、数倍の敵を目の前に、
智略をもって撃退した智将がいました。
信州上田の、真田昌幸(さなだまさゆき)です。
いったいどんな戦いをしたのでしょうか?
野戦も交え、相手の裏をかく戦略
真田軍と徳川軍の戦いは2回行われました。
一度目は天正13年(1585年)、徳川軍の
鳥居元忠(とりい・もとただ)を大将とした
7,800の軍勢と、真田軍2,000余りとの戦いです。
真田軍は上田城を主として、戸石城、矢沢城を支城に、
抗戦の構えを見せます。
籠城のセオリーとして、援軍を要請しますが、
この時、同盟関係にあった上杉氏に援軍を
要請しています。
上杉軍は援軍を送りますが、矢沢城に入っているので、
それほど多くはなかったようです。
そうなると、出鼻をくじき、
相手のやる気を削ぐ必要があります。
そこで、真田軍は200の兵を出撃させ、
寄せ手に戦いを挑んみますが、
しばらくすると退却を始めます。
徳川軍はこれを「好機」と追撃しますが、
これは罠でした。
上田城の前は見晴しの悪い市街地になっていて、
仕掛けをするにはうってつけです。
そこに誘い込んだのです。
あっという間に上田城に到達し、
勢いを借りて二の丸にまで入り、
制圧しようとする徳川軍に対したその瞬間。
城内の、あちこちから鉄砲や弓矢を降りそそいだのです。
先ほど逃げ帰った真田軍も、曲輪を利用して取って返し、
徳川軍に殺到します。
あわてた徳川軍は、踵を返そうにも、
後続はまだ勢いがあります。
進むもならず、引くも引けない状況で大混乱。
しかも真田軍は市街地には柵を周到に立ならべ、
思うように動けないよう準備していました。
そこに、市街地から火を放ち、伏せていた兵を
一斉に襲わせます。
徳川軍はさらに大混乱します。
こうなったら、いくら寄せ手の数が多くても、
もう怖くありません。
しかし、さすがに徳川軍の中でも名の知られた
将が率いた軍です。
なんとか軍を立て直し、退却を始めます。
そこへ、上田城はもちろん、戸石城、
矢沢城から出た兵で追撃を始めました。
我先に逃げる兵を神川に追い落とし、
三倍以上の差があった徳川軍を壊滅に追い込みます。
この戦いで気勢を削がれた徳川軍は、
近くの丸子城を攻撃しますが、
こちらも落とすことができません。
小諸城に引き、その後、情勢の悪化から
上田城攻略を断念することになります。
第一次上田合戦の背景
この頃の情勢は、めまぐるしく変化していた時期でした。
真田氏は、甲斐武田氏の配下でしたが、
その武田氏は織田・徳川連合軍によって滅亡し、
家臣団は一時、織田氏に吸収されました。
しかし、まもなく信長が本能寺の変で横死すると、
旧武田氏の領地は、ふたたび上杉・徳川・北条の三氏が
虎視眈々と狙う地になりました。
真田氏はこうした政治状況のなか、
常に強い支配力を持つ勢力と
繋がっている必要がありました。
上杉氏とは旧来の敵であったため、
小田原に本拠地を持つ北条に一時ついていました。
しかし、徳川方の工作により、
徳川につくことになります。
これで安心かと思いきや、徳川氏と北条氏の間で、
和睦が取り交わされ、その条件に、
上田を割譲することが決められました。
もちろん、代替え地はありましたが、
徳川氏の配下となったとはいえ、
相談もなしに本拠地を追われることに、
真田氏は反発します。
「徳川から授けられたわけでもないのに、
勝手に取りあげられる事には従えない」
というわけです。
気持ちはわかりますよね。
徳川としては、なんとも詰めの甘い話ですが、
真田氏を侮っていたのかもしれませんね。
とはいっても、和睦の条件ですから、
徳川氏がなんとかしなければなりません。
そこで差し向けた兵が、鳥居元忠を大将とする
上田征伐となったのです。
この戦いで、徳川氏は手痛い敗北を喫しますが、
その実力を大いに認めたといわれています。
真田昌幸の長男・信之(のぶゆき)に対して、
非常に手厚い待遇を行い、
重臣の娘を妻にと紹介しました。
その縁があって、信之は江戸幕府の中でも上位の
”普代大名”の待遇でした。
江戸時代には沼田や松代を任される、大名になります。
まとめ
第一次上田合戦は、3倍もの兵力差がある相手を
翻弄した戦いでした。
ただ立て籠るわけではなく、
うまく寄せ手を引き寄せてから、
寄せ手が油断する瞬間に反撃をしました。
平城ならではの、町を利用した戦略も見事ですね。
最後は、支城の兵を動員して、
最大の攻撃を行ったところなど、
非の打ちようがありません。
しかし、元はといえば、勝手な約束をした
徳川氏に非がありました。
この戦いで一躍名を馳せた昌幸ですが、
真田家はこの後、苦渋の決断を迫られることになります。