岐阜城が建つ金華山は、頂上までの標高が、
およそ300mを超えます。
ロープウェーがあるとはいうものの、
直接天守につながっているわけではなく、
そこからさらに登らなくてはいけません。
足腰に不安があると、ちょっと遠慮したくなりますよね。
登れないなら、いっそのこと、
岐阜城を堪能できる、麓のスポットから眺めてみるのも、
城の楽しみかたのひとつ。
さいわい岐阜城には、他にはないビュースポットが
用意されていますよ。
信長も保護した鵜飼
そのスポットとは、”鵜飼観覧の船上”です。
もちろん、夜には城がライトアップされるので、
川岸や市中から誰でも見れます。
だからわざわざ、船に乗らなくてもいいんじゃないか
と思いますよね。
ですが、船に乗れば、陸の喧騒から離れ、
水の音だけが広がる世界です。
通常から隔離された”船上”から、
かがり火に照らされた川面と共に仰ぎ見る城は、
また別次元の趣があります。
この、”鵜飼”は、1300年も続く伝統の漁で、
特に岐阜市と関市の鵜飼は、
宮内庁に属する”鵜匠”によって行われる、
格式の高いものです。
時の権力者、織田信長(おだのぶなが)も、
鵜匠を保護して、俸禄を与えました。
武田信玄の使者を接待した時にも、
鵜飼を共に観覧し、土産の鮎を自ら選別したそうです。
現在の鵜飼は、5月から11月までが解禁され、
予約すれば乗船して観覧することができます。
7月から9月の2か月間は「納涼鵜飼」と称して、
土曜日限定で、通常1回のところ、2回開催しています。
ただ、増水時や花火大会は船が出ない場合があるので、
注意が必要です。
次の場合、割引きができる制度があるので、
活用するのもいいですね。
信長が接待した理由は?
信長は、武田信玄の使者を”鵜飼”で接待しましたが、
その使者は秋山 虎繁(あきやま とらしげ)でした。
1567年に、織田家と武田家の同盟のため、
信長の子・信忠(のぶただ)と、
信玄の娘・松姫は婚姻の約束を交わしました。
信忠は11歳、松姫は7歳の幼い許嫁でした。
翌1568年、結納の返礼として訪れたのが、
先ほどの秋山氏で、”鵜飼”の接待を受けたのです。
しかし、許嫁となった二人が、
共に暮らすことはありませんでした。
1572年に、武田信玄の軍が三河の徳川家康領に攻め込み、
”三方が原(みかたがはら)”の戦いが起きます。
家康と同盟関係だった織田は、
家康に味方することになり、婚約は解消となりました。
しかし、その間、信忠と松姫は文通で
親愛を深めていました。
松姫はその後、武田家滅亡の苦難を乗り越え、
縁者を頼って八王子にたどり着きます。
信忠はそのことを知り、連絡を取り合います。
二人は再び会えることを信じていましたが、
信忠は、父・信長と共に本能寺の変で討死します。
幼い頃に許嫁となったものの、
一度も会うこともなかった相手の最期を耳にした、
姫の胸中はいかばかりだったでしょうか。
松姫の想いは一途だったようで、
そのあと何度もあった縁談を断って
八王子で尼となり、生涯を独身で過ごしたと
伝えられています。
まとめ
岐阜城がそびえる、”金華山”の麓を流れる長良川では、
5月から11月にかけて、”鵜飼”が行われます。
予約すれば、観覧船に乗船でき、
割引き制度もあります。
鵜匠は信長も保護し、
息子・信忠と松姫の婚礼の使者に、
鵜飼で接待しました。
現在でも皇居へ献上されたり、
明治神宮・伊勢神宮へ奉納される伝統を残す漁法です。
船上から岐阜城を仰ぎ見て堪能するのも、
城見物の楽しみの一つです。