近世城郭が身近なだけに、戦国時代以前の山城や館は
地味だなって思いませんか?
しかも、奈良時代の遺構ともなると、礎石だけで、
城らしい遺跡がないことも多いです。
そのころの姿は、文献から想像するしかないので、
分かっていないことも多いのもまた事実です。
とはいえ、わかっている内容を見てみると、
戦国の世とは違った事情が、少し見えてくるようです。
その当時の姿を少し覗いてみましょう。
政庁としての”城柵”
「城柵(じょうさく)」という言葉を
聞いたことがありますか?
まだ都が奈良県(大和)にあった頃にみられたもので、
主に東北地方で、政務を行う場所として造られました。
当時はまだ大和政権に従わない民・蝦夷(えみし)
がいて、朝廷は頭を悩ませていました。
城柵は、そういった蝦夷に対する軍事拠点としても
使われました。
城柵の遺構は主に、政庁としての建物跡の礎石が
ほとんどです。
発掘調査が進んでいる城柵もありますが、
”城”と付いているわりに、土塁や堀といった、
城ファンが期待するものはほとんど見られません。
有名なのは、724年に造られた城柵で、
多賀城(たがじょう・たがのき)でしょう。
宮城県多賀城市にある、国の特別史跡です。
南北の辺が約900m、東の辺が約1km、
西の辺が約700mを土塁で囲われていたそうです。
上から見ると、台形のような形だったのでしょう。
築地塀か土塀で囲われ、北を除く三方向に
門が設けられていました。
門は見通しが利くように、
2階建ての門だったと考えられています。
日本の建物は、メインが木造なので、
残っていないことがほとんどですね。
だから、文献などから得られた情報を、
想像力で補うしかありません。
塀で囲まれた内部は、曲輪のような区画が
分かれていなかったようです。
城というものの、現在イメージする城ほど、
実戦的な様子は感じませんね。
政庁で働く役人が、ある程度安心して
暮らせるという程度に思えます。
当時は、後に起こるような、大規模で
組織的な戦いは、ほとんどなかったのかもしれません。
時代と共に城柵も変化
多賀城は、平安時代にも使われていたようで、
前九年の役、後三年の役で、
源義家(みなもとのよしいえ)が歓待された
場所として名前が登場します。
後三年の役(1083ー1087年)には、
沼柵、金沢柵という城柵が登場しますが、
多賀城のような城柵ではないことが伺えます。
とくに、金沢柵は籠城戦になっていますが、
武勇の誉れ高い源義家と、清原清衡(奥州藤原氏の祖)
の連合軍は、正攻法で攻め落とすことができず、
苦労しました。
金沢柵は、所在地が山あいにあったとされ、
堀が幾重にも設けられた、
山城に近い城柵だったようです。
ちなみに後三年の役は、地方の豪族が、
中央の力が及ばないことを背景に、
自分たちで問題を解決する
”自力救済(じりききゅうさい)”から始まります。
源義家が介入することで決着をみますが、
朝廷は私戦としてとりあわず、
恩賞どころか降格させています。
朝廷は、東北地方(奥州)の支配を事実上放棄し、
清原氏(後に藤原姓に改姓)に任せることになります。
奥州藤原氏はその後、100年にわたって、
栄華を誇り”平泉文化”と呼ばれる
独自の文化を生み出します。
義家はというと、朝廷からの恩賞を
得られないままでしたが、
部下たちへは私財を投じて恩賞を与えます。
この行いに義理を感じた武士たちは、
義家のひ孫にあたる頼朝の挙兵に手をかし、
鎌倉幕府樹立への原動力になったたといわれています。
まとめ
政庁としての役割がある城柵。
わたしたちがイメージする城ではありませんでした。
多賀城は土塁や塀で囲まれ、
2階建ての門はありましたが、
曲輪などの区画はなかったようです。
まだ、大和政権の律令が効力のあった
時期だったのでしょう、
大規模な戦いはなかったようです。
平安時代になると、”城柵”の名でも、
”金沢柵”にみられる山城のような城が
存在していた様子が「後三年の役」のから伺えます。