城の中枢ともいえる、本丸には天守が建ってますよね。
天守がある城を目にする機会が多い現代だと、
”城には天守が当たり前に建てられていた”
と思われがちだけど、じつはとっても珍しいんです。
なにせ、全国で2万5千とも、3万ともいわれる
城があったとされていて、現在見ることのできる城は、
ほんの少し。
そのほとんどは、山野に埋もれてしまっていて、
痕跡すら無い城も多いですよね。
さらに、天守が建てられた城は、
期間的にも安土桃山時代から江戸時代初期まで(※)の、
ほんの50年の間に建てられたもので、
その後は新しい城が造られなくなります。
そう考えると、貴重なんですよね。
では、今に残る天守って、
どんな経緯で建てられたんでしょうか?
そこには、城の目的そのものが
大きく変わって行く転機がありました。
(※:1573年~1620年あたりまでの時期)
生みの親、織田信長が建てた天主
織田信長といえば、近年は『信長協奏曲』
『本能寺ホテル』といった、
ドラマや映画でも目にすることがありますね。
強烈な個性を持つ、強権的な人物として
描かれることが多い人物ですが、
部下の能力を活かすことに長けていたように思います。
でなければ、一地方の守護代(※)が、
天下統一を目前にするまでの大名になんて、
なかなかなれるものじゃないですよね。
(守護代とは:
行政権・軍事権を持つ土地の所有者(守護)
から管理を任された、代理人のこと)
信長は、部下の出身が農民であっても、
能力があれば積極的に昇進させるなど、
今でいう実力主義でした。
当時からすれば、珍しいことでした。
そんな信長が造った城に、有名な安土城があります。
安土城には日本で初めて”天主”と呼ばれる
5層6階地下1階の建物が造られました。
これが天守の始まりといわれています。
当時、キリスト教布教のためにポルトガルから
来日していたルイス・フロイスは
その著書「日本史」に次のように記しています。
中心には、彼らがテンシュと呼ぶ一種の塔があり、私たちの塔より気品があり壮大な建築である。
この塔は七重からなり、内外共に建築の妙技を尽くして造営された。事実、内部にあっては、四方に色彩豊かに描かれた肖像たちが壁全面を覆い尽くしている。外部は、これらの階層ごとに色が分かれている。あるものはこの日本で用いられている黒い漆塗りの窓が配された白壁であり、これが絶妙な美しさを持っている。ある階層は紅く、またある階層は青く、最上階は全て金色である。このテンシュは、その他の邸宅と同様に我らの知る限りの最も華美な瓦で覆われている。それらは、青に見え、前列の瓦には丸い頭が付いている。屋根にはとても気品のある技巧を凝らした形の雄大な怪人面が付けられている。(ウィキペディアより)
すでに、姫路城に通じる
”美を備えた天主”
であることがうかがえますね。
信長が”てんしゅ”に「主」の文字を使ったのには、
天下を統一して、天下の主になるという
野心の現れだという説があります。
でも、”てんしゅ”に「主」の字が使われたのは
安土城だけで、あとの城には”守”が使われました。
安土城に遠慮したのか、
『天主』と使うことは畏れ多いと思ったのか、
はたまた落城した安土城と同じ字を使うことを
避けたのかは定かじゃありません。
ちなみに、天守のような多重構造の建物は
安土城よりも以前にあるので、
独創じゃないですが、絢爛な建物として、
それまでの城とは違う目的がありました。
城の転機となった安土城の目的とは
信長が安土城を建てた時期は、
すでに領土が広がっていて、
天下統一への勢いが増していた時期でした。
しかも、安土城は領土の中心に
近い場所に造られています。
本来は前線で活躍するはずの城を、
領土の中心に近い場所に造ったのには、
理由があったはずですね。
もちろん、本拠地を守る意味もありますが、
城の入り口にあたる”大手”から、
ほぼまっすぐ石段が敷かれているなど、
安土城はあまり防御に適した作りにはなっていなかったようです。
その代りに、
”見せるための城”として建てられたというのが、
定説になっています。
なんのために見せる城を造ったのかというと、
天下に知らしめるためでしょうね。
ルイス・フロイスの、
先程の記述をもう一度読んでください。
めちゃくちゃすごそうな様子が伝わってきませんか?
当時はかなりのインパクトがあったんでしょうね。
今で言ったら、スカイツリーを自費で建てたくらいのインパクトでしょうか?
見せる城を造った信長は
それだけで終わらせません。
珍しい城を建てるだけじゃなく、
人を集める政策もとりました。
商売を始めやすくする”楽市楽座”を導入し、
経済の活発化で集まりやすくしたり、
ルイス・フロイスのような、
海外からの宣教師を呼び寄せていますね。
その甲斐もあってか、安土の名は、
遠くヨーロッパにまで伝わっています。
この、見せる目的で造られた安土城の
天主を皮切りに、後の城づくりに
大きな影響を与え、天守を持つ城が
建てられるようになりました。
まとめ
今に残る天守を持つ城は、
いまから約500年前に誕生しました。
その火付け役になったのが、
織田信長が建てた安土城。
守る城から、見せる城へと、
役割が大きく変わった瞬間でした。
信長は本能寺の変によって、
志半ばで倒れましたが、
その城の役割はひき継がれ、
江戸時代初期には政治を行う場となっていきました。
今では当たり前の天守も、
信長がいなかったら、
誕生してなかったのかもしれないですね。
ちなみに、安土城は築城から
わずか3年で焼失してしまいました。
いったい、どんな城だったんでしょうね。