水攻めを跳ね返した名城”忍城”とは

忍城祭り

北条氏(※)の配下で、成田氏が統治する城に
忍城(おしじょう)”がありました。
(※:鎌倉時代の北条氏とは系統につながりはなく、
属に”後”を付けて後北条氏と呼ばれています)

豊臣秀吉(とよとみひでよし)が発令した
関東仕置きでは、北条氏の本拠地”小田原”
攻められます。

北条氏は対抗策として、配下の城も有効に活用した、
大ネットワークを築いていました。

忍城は、次々を友軍の城が落城するなか、
水攻めに苦しめられながらも、
小田原城が開城するまで持ちこたえたのです。

10倍の兵力の差があったといわれる”忍城の戦い”。

なぜ、忍は落城しなかったのでしょうか?

戦下手の烙印!石田三成の忍城攻略

忍城(おしじょう)は、埼玉県行田市の
さきたま古墳群”の近くにあり、
平野部に築城された城です。

利根川や荒川に囲まれた湿地帯にあり、
攻めにくい要害の城でした。

忍城を本拠地とする成田氏は、北条氏の配下として、
この地を統治していました。

北条氏は、巨大な城郭都市”小田原城”を本拠地とし、
小田原城を中心に、配下の城が互いに増援を送って
助け合う、防衛ネットワークを構築していました。

小田原城においては、これまでも何度か
籠城で敵を撤退させましたが、
豊臣秀吉はこれまでとは比べ物にならない物量をもって、
北条氏を攻めました。

これにはせっかく構築したネットワークも麻痺し、
次々と支城が落城していきます。

忍は、そんな小田原包囲網の後半に、
石田三成(いしだみつなり)を大将とする
約2万の兵に攻められることになります。

籠城戦になったとき、守勢側が勝つための手段には、
次の3つが必要です。

  • 援軍を呼ぶ。
  • 寄せ手の士気を低下させる。
  • 隙をみて大将を討つ。
  • しかし、すでに北条方の支城は落ち、
    援軍は望めません。

    守勢の兵は500とも、2千ともいわれていますが、
    どちらにしても、数で勝ち目のない戦いでした。

    しかし成田氏には、ここで降参できない
    理由もありました。

    成田氏の当主・氏長(うじなが)が小田原城
    北条氏と共に抗戦していたのです。

    忍城にとって幸いだったのは、
    石田三成が堤防を築き、
    水攻めの準備をはじめたことでした。

    数を頼んでの力攻めなら、
    落とされていたかもしれません。

    水攻めの準備により、
    それまでの戦いで勢いづいていた寄せ手は、
    積極性がなくなります。

    しかし、もともと川の間に挟まれた地に
    城を造っているわけですから、
    成田氏も弱点は承知の上です。

    しかも荒川は、昔から氾濫する川として知られています。

    忍城の縄張りにはもちろん、町にも土を入れ、
    多少の水で水没しないようになっていました。

    城を守る成田長親(なりたながちか)は、
    策を弄して、石田三成の築いた堤防を破り、
    相手の士気をさらに下げることに成功します。

    その後、石田勢は攻撃を仕掛けますが、
    湿地や沼地で足を取られ、足並みもそろわない中、
    成田氏の反撃を受けます。

    守勢側は、少数の兵で寄せ手を誘い込み、
    城から攻撃を加えたり、寄せ手の背後に回って
    奇襲をかけるなどの活躍を見せ、

    坂東武者(ばんどうむしゃ)の勇猛さを
    いかんなく発揮しています。

    結局、寄せ手に多くの犠牲が出る中、
    攻めきれないでいるうちに、小田原城が落城します。

    小田原に詰めていた成田氏長は、
    支城群でたった一つ落城せずに残った忍城に戻り、
    北条氏の滅亡を知らせ、開城。

    戦いが終結します。

    石田三成はこの戦いで、水攻めに失敗した
    ”戦下手の大将”という烙印を押されることになりました。

    三成も知っていた?水攻めに適さない忍城

    石田三成は、後の「関ヶ原の戦い」で、
    徳川家康に敗れたため、江戸時代に書かれた書物には、
    あまり良いイメージで描かれません

    忍城の水攻めも、
    そうした戦記物に描かれているそうです。

    現在の研究では、”水攻め”が行われたことについて、
    否定的な見方があります。

    ですが、堤防は”石田堤”という名で残っており、
    堤防を築いていたことは確かなようです。

    しかし、堤防を築いたのは石田三成の発案ではなく、
    秀吉からの指示によるものだったといわれています。

    「最上層部が水攻め」と言っているだから、
    それに従ったまでというところなんでしょう。

    なんだか、サラリーマンに通じるものがありますね(笑)

    そもそも忍城は、関東平野に位置し、
    利根川と、荒川という大きな川に挟まれていて、
    水攻めには適さない地です。

    かなり高い堤防を造り、
    利根川も、荒川も堰き止めるくらいしなければ、
    効力はないでしょう。

    実施したとしても、
    水没する広範囲の田畑に被害がでます。

    そんなことをするより、力攻めしたほうが、
    短期で決着が付いたことでしょう。

    もしかすると、水攻めを指示した秀吉には、
    別の意図があったのかもしれません。
    たとえば、こんなことです。

  • 子飼いの三成に手柄を立てさせたかった
  • 援軍を望めない忍城で兵力を消耗するつもりはなかった
  • 財力を誇示するデモンストレーションを目的とした
  • 実際、落城できなかった三成にはお咎めはありません。

    どんな理由にせよ、後年に名を落とす
    石田三成とは対照的に、忍城は水攻めにも落ちなかった
    ”浮き城”として名を残すことになります。

    まとめ

    埼玉県行田市にある忍城は、大軍に囲まれ、
    水攻めを受けたといわれています。

    しかし、もともと水が氾濫しやすい川に挟まれた
    平野部にあるため、多少の水では水没することは
    ありませんでした。

    もちろん、水没しなかっただけでなく、
    守勢側の必死の抵抗もあり、
    落城することはありませんでした。

    結果的に開城しますが、戦術的に勝ち抜きます。

    映画「のぼうの城」では、水攻めにあった
    ”浮き城”の美しい姿を再現し、話題を呼びました。

    映画では、野村萬斎さん演じる成田長親が、
    領民と心を通わせる心優しい武将として描かれていますが、
    一方で”でくのぼう”と呼ばれていました。

    籠城の際には父と共に城を守りますが、
    頼みの父が急死し、「でくのぼう」の長親が代わって
    指揮をとることになります。

    映画なので、多少は脚色されていますが、
    忍城を取り巻く状況が、よくわかる内容になっています。

    現在は復興の櫓が建てられており、
    市街化されていますが、堀の遺構も少し残っています。

    少し離れた「さきたま古墳群」には、
    石田堤などの遺構も見ることができます。

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