小田原城に籠った北条氏の明暗とは?(前)

北条早雲像
難攻不落といわれた城を、
本拠にしていた武将がいました。

小田原城の北条氏です。
(鎌倉幕府の北条氏とつながりはなく、
区別のために”後”北条氏と呼ばれます)

小田原城は戦国時代でも、
はやくから大きな総構えをもつ城として、
整備されていました。

しかし、そのことが北条氏の運命を
左右することにもなります。

籠城戦で寄せ手を退けた戦いと、
開城することになった、2つの戦いです。

その戦いの違いにどんな違いがあったのでしょうか?

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関東管領に攻められた戦い

北条氏は、配下に巨大な支城ネットワークを構築させ、
関東地方を支配し、広げていました。

しかしその拡張によって、
他の大名と摩擦が起きることは必定です。

永禄4年(1561年)、小田原城は、
11万の大軍に迫られていました。

総大将は、上杉謙信(うえすぎけんしん)
越後の虎(または龍)と恐れられた武将です。

北条氏は、いまの神奈川県、東京都、
千葉県の一部、埼玉県を領有する、大名でした。

謙信は、関東管領(かんとうかんれい)として、
関東の秩序を乱す北条氏を討伐する地位にあったのです。

しかし、関東の情勢はつねに不安定で、
上杉氏に従うものもいれば、
北条氏に着くものもいました。

北条軍は、川越城などの支城郡で防衛線を作り、
抵抗しましたが、さすがに上杉謙信です。

次々に落とされ、鎌倉に入られてしまいます。

謙信は鎌倉で正式に関東管領となり、
軍団の引き締めを図ります。

海沿いに、小田原までたどり着き、
攻城戦の構えを見せます。

北条氏の頼の綱

対する北条氏も、黙ってみていたわけではありません。

上杉氏と対立していた武田信玄(たけだしんげん)と、
旧来の同盟国である、今川氏援軍を要請しました。

それと同時に、上杉軍に降った城に使いを出して、
寝返りを誘います。

謙信は小田原に到着したものの、攻めあぐねます。

というのも、小田原城はいくつもの曲輪をもち、
広い総構えがあり、その周りに畝状の堀が取り囲む、
守りの堅い城でした。

北条軍を城から誘い出すために、
上杉連合軍は、時には町に火を放ち、
謙信自ら城の近くで飯を食べるなど、誘いをかけます。

北条側は、城内から鉄砲で撃ちかけますが、
いっこうに乗りません。

こうなると、長期戦を覚悟しなければなりませんが、
謙信の軍には、長く留まれない理由がありました。

  • 本拠地が上越(新潟県)にあるため、物質などの輸送が伸びきっていること
  • 従っている諸将に不和があり、長期の陣に反対意見が出ていること
  • 背後にある城の武将が寝返っていること
  • など、様々な問題が発生していたのです。

    そして、さらに悪いことに、
    「武田信玄が上杉氏の領地に進軍している」
    という報告が入りました。

    さすがに、自らの領地が攻められているのに、
    小田原城を攻めている場合じゃありません。

    上杉軍は撤退し、北条氏征伐は失敗したのです。

    この戦いは、北条氏がいたずらに
    相手の挑発に当初乗らず、
    援軍をうまく使ったことにより、
    撤退させることができました。

    まとめ

    室町時代、関東の秩序を保つ役割をもっていたのが、
    関東管領(かんとうかんれい)でした。

    しかし、その権威が落ちるなかで起きたのが、
    小田原城攻めです。

    上杉謙信は前任者・上杉憲政(うえすぎのりまさ)から
    その役を引き継ぎ、懲罰のために小田原城を攻めました。

    北条氏は城から出ることなく、
    援軍をうまく使ってこれを退散させました。

    この籠城戦の成功は、
    北条氏の運命を左右することになります。

    北条氏はこの後も城の拡張を続け、
    町全体を囲う総構えとなり、
    さらに守りを堅くします。

    しかし、その守りも豊臣秀吉の
    小田原征伐の前にはなすすべもありませんでした。

    後編でお伝えします。

    兵力は違いますが、数で劣勢でも、
    城から出て戦った真田氏とは
    戦略がずいぶんと違いますね。

    第一次上田合戦 敵を翻弄した巧みな戦術とは
    第二次上田合戦とは何だったのか

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