豊臣秀吉が築いた大阪城はなぜ破られたのか?

大阪の陣 茶臼山

一介の足軽から、その才能で上り詰め、
関白職にまで就任した”豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)”。

攻城戦の名手としても知られ、
数々の城を落としてきました。

その彼が計画し、築城した大阪城は、
いくつもの川と堀に囲まれ、
広大な敷地を持つ堅城でした。

しかし、完成からわずか16年
徳川将軍に攻められ、開城することになります。

いったい、なぜ開城することに
なったのでしょうか?

籠城の目的が・・

徳川将軍が豊臣家の本拠地である大阪城を攻めたのは、
冬の陣と夏の陣の2回ありますが、
籠城戦が行われたのは、冬の陣だけです。

豊臣家は関白職でしたが、秀吉はすでに亡くなり、
まだ若い秀頼(ひでより)が受け継いでいました。

秀吉が生きていた頃は、
徳川家康(とくがわいえやす)は、その配下でした。

ところが秀吉が亡くなると、豊臣家を孤立させ、
臣下として扱うようになります。

それまで主君の立場だった豊臣家は、面白くありません。

そうした中で、豊臣家にゆかりのある、
方広寺の梵鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」の句が、
家康を冒涜し、豊臣家の繁栄を願うものとして、
徳川幕府の怒りを買い、冬の陣が起こります

豊臣家は莫大な資金を背景に、兵糧を買い集め、
兵を雇い、その数10万にものぼったといわれます。

しかしその中に、豊臣が恩顧にしていた大名の姿はなく
徳川家に滅ぼされた大名の家臣が大半でした。

その中にいたのが、ドラマ「真田丸」で
クローズアップされた”真田信繁(幸村)”や、
長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)
塙直之(ばん なおゆき)といった名将達でした。

豊臣側は軍議に、こうした名将も入れ、
軍議を行いますが、意見が合いません。

豊臣側はあくまでも”籠城”とし、
傭兵側の主張は、
”野戦で徳川方の弱点を攻め、戦局を有利に進める”
というものでした。

豊臣側の狙いは、戦いを長引かせて、
有利な条件で講和したい”という目的があり、
籠城しかないと判断したのです。

消極的な意見です。

傭兵たちは、徳川家に遺恨があるため、
野戦で一泡吹かせたい”という思いもありました。

しかし、野戦の場合はひとつの懸念もあります。

寄せ集めの兵なので、
組織的な戦闘ができるのか?
という不安でした。

その答えは、夏の陣で出るのですが・・・

ともかく、豊臣軍は籠城を決め
真田信繁(幸村)は馬出曲輪(真田丸)を築いて
防御力を高めるのでした。

こらえきれなかった淀殿が開城

籠城を決めた豊臣側ですが、状況はよくありません。

籠城側が寄せ手を撤退させるには、次の3つに手を打つ必要があります。

  • 援軍を得ること
  • 本陣に打撃を与え、相手の士気を下げること
  • 十分な備蓄を準備すること
  • しかし、豊臣側にできたのは、
    兵の調達と兵糧の準備くらいでした。

    援軍が期待できるはずの、秀吉恩顧の大名は、
    すでに他界しており、代替わりした大名も、
    将軍との繋がりを持っています。

    相手の士気を下げるにも、打って出なければ、
    インパクトは与えられません。

    そして、武器や弾薬は、日毎に消耗していくのです。

    しかし、徳川方にも懸念はありました。

    豊臣側の買い占めと、冬という時期が重なり、
    兵糧が不足しはじめます。

    とはいえ、徳川方が譲歩しなければならない
    理由ではありません。

    徳川軍は、城を取り囲み、城の正面から攻撃を
    仕掛けますが、真田丸のためてこずります。

    やはり堅城です。
    簡単に落とすことはできません

    そこで、塹壕を掘って城に近づき、
    鉄砲避けの土塁を構築。

    城に向けてトンネルを掘って、
    塀や櫓を無力化する方法をとることもありました。

    しかし、それでもらちが明かず、
    本丸に向けて昼夜問わず長距離の大砲を
    撃つ
    ことにします。

    これでは豊臣側も休む暇がありません。

    そのうち、本丸を狙った大砲の弾が直撃し、
    淀殿の侍女8名が落命します。

    この惨状に恐れた淀殿は、和議を申し入れ、
    大阪冬の陣が終結しました。

    家康に一矢報いるつもりで集まった
    傭兵の武将にしてみれば、歯がゆかったことでしょう。

    まとめ

    大阪の陣はそもそも、徳川家康にとって、
    目の上のたんこぶだった
    豊臣家を服従させるため”の手段でした。

    対する豊臣家は、
    それまでの立場を守ろうとしたものです。

    しかし、関白では軍事権はなく、
    武家の棟梁が任命される「征夷大将軍」の、
    徳川家が持っていました。

    秀吉の死後、実力のある人物が跡を継いでいれば、
    また違った歴史になっていたのかもしれません。

    いたずらに将兵を失った大阪の陣ですが、
    戦国の世の終焉を告げる戦いでもあり、
    真田信繁、毛利勝永、塙直之といった名将が、
    最後の光を放った戦いでした。

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