江戸城デザインに込められた熱い思い

引両紋
細かな造形にも深いワケがあることが分かると、
城や歴史を知るのが楽しくなります。

たとえば、江戸城に現存する櫓や、
小田原城で復興されている天守に
”でっぱり”がある事に注目してみましょう。

窓部分の上下に、横方向に2本出っ張りが
あるのが分かります。

あれ、単なる装飾でしょうか?
それとも、ふかーい理由があるんでしょうか?

わざと残した出っ張りの意味

窓部分の上下にある横一文字の出っ張りは、
長押(なげし)といいますが、長押というと、
よく部屋の中にありますよね。

ちょうど、頭の上くらいに、
ハンガーやフックを掛けられるくらいの幅がある、
出っ張りのことです。

もともと、柱と柱の間を渡す横木を、
外側から補強するために付けられたものだそうです。

城に使われている長押も、補強のためだとしても、
壁は漆喰で全面塗り固められていので、
出っ張りなんかあったら、邪魔でしょうがないですよね。

ですが、わざわざその出っ張りを残しているわけです。

その理由は、徳川家康の
「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」
拝命に関係しています。

征夷大将軍というのは、武家を取りまとめる
棟梁(とうりょう)が就く官職のことです。

奈良に都があった時代は、
他にも将軍の官職があり、
軍をまとめる将軍という意味以外になく、
臨時に任命されるものでした。

しかし、源頼朝(みなもとのよりとも)が
鎌倉幕府を開く際に、征夷大将軍に任命されると、

武士を取りまとめて、朝廷にかわって
政治をおこなう
性質が色濃くなり、
また常設の官職になっていきます。

征夷大将軍は朝廷の官職なので、
正当な血筋が必要でした。

どこの誰だか分からない人は、
朝臣(ちょうしん)としては認められないからです。

ただの装飾ではなく旗印

そこで、徳川家康は清和源氏(せいわげんじ)の
血筋である、新田氏(にったし)の末裔であると
名乗りました。

実際にはそうではないですが、このあたり、
柔軟な対応をしていますよね。

清和源氏の血筋には、足利氏(あしかがし)と
新田氏が有名で、この両氏は対照的な運命にあります。

足利氏は源頼朝を助け、鎌倉幕府内でも
発言力がありましたし、時代を下がってから
北朝(ほくちょう)を助け、
室町幕府を開くまでになりました。

一方、新田氏は、頼朝の求めに応じず勢力を弱め、
鎌倉時代末期では足利と対立して
南朝(なんちょう)に仕え、ついには滅亡してしまいます。

家康としては、存続している足利氏より、
滅亡した新田氏の末裔を名乗るほうが、
やりやすかったのでしょうか。

そして、新田氏の家紋が
”丸に一つ引両紋(ひとつひきりょうもん)”です。

丸に一つ引両紋というのは、
丸に横一本の太い線(○に-)を書きこんだ印で、
新田氏の旗印にも使われました。

旗は長方形なので、丸の輪郭が四角になり、
上中下ほぼ均等に三分割されているようになっています。

城に使われている長押を境界線として見立てると、
ちょうど新田氏の旗印である
「一つ引両紋」になるというわけです。

どうして、わざわざ建物に引両紋を記したのかというと、
幕府を開いた家康の心意気を表したのだと考えられます。

もともと、”幕府”という呼び名は、
行軍した際に、将軍が居る陣営に幕を張ったことから
名付けられました。

江戸城は、総漆喰づくりで、
源氏である白を強調し、新田氏の流れを表す、
一つ引両紋の旗印を、長押で表現した、
まさに幕府としてふさわしい場所にしたわけです。

まとめ

江戸城に多用されている二筋の長押は、
漆喰で塗りこめたほうが楽にもかかわらず、
装飾として残していました。

そこには、徳川家康の深い想いが
込められていたようです。

家康は将軍職を拝命するため、
新田源氏の末裔を名乗ることになりました。

また、江戸城は征夷大将軍が陣営を構える場所として、
ふさわしい場所にする必要がありました。

そこで、新田源氏の旗印である
”引両紋”を長押で表すことにしたのだと考えられます。

完成した江戸城を見て、
家康の想いはどんなものだったのでしょうね。

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