先日、豊臣秀吉の書簡が新しく発見されたという
ニュースが流れていましたね。
発見された秀吉の書状。右から3行目の上から2文字が信長を意味する「上様」
織田信長が明智光秀に討たれた1582年(天正10年)の本能寺の変の直後、羽柴(豊臣)秀吉が家臣に宛てた書状が愛媛県内の個人宅で発見された。 変後に横行した京都市中での略奪に対し、信長ゆかりの品物に限っては持ち主に返すよう命じた内容だ。亡き主君・信長を変後も秀吉が尊重していたことを示す史料として注目される。
<読売オンラインの過去記事より>
当時は羽柴 秀吉(はしば・ひでよし)と名乗っていましたが、
後に豊臣姓を賜ったので、両方記載されています。
この頃、山城国(現:京都府)は秀吉が管理しているので、
京都で起こった”本能寺の変”の後処理をしているわけです。
”本能寺の変”は、義務教育課程で必ず学ぶほどの、
重要な歴史なので、ここでは内容を割愛します。
もし、詳細を知りたい場合は、
ウィキペディアに詳しく書いてるので、
読んでみてくださいね。
<本能寺の変>
本能寺は、信長が宿泊していたことで灰となりますが、
なぜお寺なのか、不思議に感じたかもしれません。
ところが、当時のお寺というのは、
出城の代用として使われることもありました。
お寺というより出城
本能寺は、東西120m、南北240mという
広大な敷地を持ち、幾重もの堂宇が建っていたようです。
その西側には堀川が流れ、
他の三方にも堀を掘っていました。
その内側に0.8mの石垣と、塀が建っていたことが、
発掘調査で分かっています。
お城というには小さいですが、
出城ほどの防御力は備えていたと考えられます。
ところが、本能寺の変では、
信長のには100~150人の供がおり、
奮戦しましたが、ほぼ全員が討死を遂げています。
信長の長男・信忠は、妙覚寺にいましたが、
信長が横死したことを知り、
二条御所に籠りますが、ここも攻め落とされました。
信長がもし、本能寺のような出城で、
準備が整っていたなら、信忠が来るまで、
持ちこたえることができたかもしれませんね。
しかし、さすがに総勢1万3000人の、
しかも味方の奇襲とあっては、ひとたまりもありませんでした。
信長はなぜ本能寺と?
本能寺と信長のつながりは、
信長が本能寺の日承に帰依していたことによります。
法華宗の流れを組む寺院でしたが、全国に布教をして、
大きな組織をもっていました。
種子島にも広がっていたようで、当時の最先端だった、
鉄砲にも縁があったそうです。
信長が鉄砲を多様したことは知られていますから、
そうした繋がりもあったのでしょうね。
今と違い、当時の火縄銃は飛距離、命中率なども低く、
武士の得意とする弓矢に比べても劣っていました。
しかし、信長は積極的に鉄砲を採用し、
天下布武に邁進したことが知られています。
おそらく、鉄砲は、弓矢のような高い技術や体力に
左右されることがなく、誰が使っても
一定の効果があるため、採用したのではないかと思います。
信長は京都に来ると、本能寺には何度か
宿泊していたようですね。
まとめ
信長が”本能寺の変”で宿泊していた本能寺は、
決して手薄な寺院ではありませんでした。
本能寺は石垣や堀を備えた”出城”とでもいえるような
防御施設で、鉄砲の普及にも少なからず
関わっていたお寺です。
にも関わらず、鎧をまとう間もなく、
自刃したといわれています。
信長は、明智 光秀(あけち・みつひで)が
謀反を起こすなんて、思っていなかったのかも
しれませんね。