平城へ変化していく武士の館

足利館
武士の「居館」と「詰めの城」という組合せの、
黄金ルール
は、近世城郭ができるまでの間、
長くとられていました。

居館については、古くから「土塁と堀の方形」
されていますが、関東地方に平安時代から残る
武士の館の遺構があります。

平野に構える城「平城」のルーツともなる
武士の居館とは、どんな姿だったのでしょう?

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現在も残る武士の居館

栃木県足利市に、およそ1150年頃に造られた
武士の居館「足利館」があります。

土塁は高さ約2-3mで、その外側に約4mの水堀が
めぐっていて、非常に良好な状態で残されています。

土塁の上は現在、生垣がありますが、
当時は塀が立ち並んでいたことでしょう。

四方の辺の長さ、東が約180m、
西と南は約210m、北が220mの方形です。

出入り口は、四方の辺の真ん中あたりに、
それぞれ一つずつ設けられています。

平安時代の武士の館は、大きさの違いはあれど、
およそ同じような外観だったといわれています。

足利館は現在、鑁阿寺(ばんなじ)という
お寺になっていて、
国宝や文化財がたくさん残されています。

足利館が鑁阿寺となったのは、1196年に
足利義兼(よしかね)が持仏堂や御堂を
建立したことにはじまります。

その後、足利氏の菩提寺として大切にされてきました。

館城跡だと思って訪れると、
ガッカリするかもしれませんが、
南の入り口は立派な太鼓橋や楼門、
敷地内には当時の鐘楼が現存するので、
見応えはあります

足利氏はこの居館を中心にして、北方にある両崖山に
「足利城」を築き、詰めの城としていたようです。

名門・足利氏の足取り

足利氏は、もともと源氏の血を引いた名門で、
栃木県足利市の足利館に本拠を置いて土着した武士です。

前九年、後三年の役で活躍した
武将・源義家(みなもとのよしいえ)の四男である
義国(よしくに)の流れを汲んでいます。

義国の兄に、新田氏の祖となった義重(よししげ)が
いますが、新田氏は源頼朝(みなもとのよりとも)の
挙兵に応じず、一時は滅亡する運命を歩みました。

徳川家康(とくがわいえやす)が新田源氏を
名乗ることで、なんとか面目を保った形になりますね。

新田氏については、江戸城の記事も参照してください。
江戸城デザインに込められた熱い思い

一方、足利氏は、頼朝の挙兵に力を貸し、
幕府の中でも要職に付いています。

鎌倉将軍家が3代で途絶えた後も、
実権を握った北条氏と縁戚関係を結んだり、
協力的な態度に努めたため、
勢力を維持し続けることができました。

鎌倉幕府が終焉を迎え、南北朝時代になると、
足利尊氏(あしかがたかうじ)が北朝を補佐し、
室町幕府を開く足がかりを作ります。

しかし、足利氏が将軍となった室町幕府は、
内紛によって権威を維持することができず、
戦国時代へとむかいます。

将軍職は15代義昭(よしあき)まで引き継がれますが、
将軍家の威信を取り戻すことができず、
織田信長によって滅亡しました。

足利氏から枝分かれした分家は、各地に土着して、
吉良氏、斯波氏、畠山氏、細川氏などを名乗り、
室町時代に各地に広まりました

まとめ

武士の拠点と同一化していった近代城郭と違い、
室町末期までの武士の居館は掘と土塁で
方形に囲まれたもので、
設備も大がかりなものではありませんでした。

まだ、戦をするには朝廷のお墨付きの付いた、
正当な「征伐令」が必要な時代です。

居館への不意打ちは想定されていなかったのかも
しれません。

足利館は現在「鑁阿寺(ばんなじ)」となっていますが、
それ故に土塁と堀が良好にのこされ、
文化財も数多く見ることができます。

足利氏は武勇に秀でた源義家を祖に持ち、
鎌倉幕府にも要職として仕えました。

ライバルを潰して実権を握った北条氏に対しても、
うまく立ち回ったようで、
鎌倉時代に滅亡することなく続きました。

尊氏(たかうじ)の代には時流に上手く乗り、
室町幕府を開くまでになります。

しかし、室町時代を通して安定した運営とは言えず、
15代で終焉を迎えました。

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