千早城の攻防!百万の軍勢をたった千人で

大勢の木人

百万の兵が押し寄せるなか、立てこもった山城に、
たった千人の兵しかいなかったら・・

想像するだけで、勝敗は決まったようなものですよね。
寄せ手が絶対に勝ちそうです。

しかし、そこが兵法の妙といったところ。
この絶望的な状況で、みごと跳ね返した武将がいました。

場所は、現在の大阪府南河内郡。
立てこもった武将は、楠木正成(くすのきまさしげ)
有名な”千早城の戦い”です。

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千早城の奮戦

千早城の戦いは、楠木正成(くすのきまさしげ)
率いる約千人程度の籠城兵と、100万ともいわれる、
鎌倉幕府軍との戦いです。

しかし、幕府軍は千早城を落とすことができず、
退却することになりました。

千早城がそれほどの大軍に対して落城しなかったのは、
大きく2つの理由があります。

一つは、千早城の立地、
もう一つは、正成の優れた指揮官能力です。

通常、詰めの城である山城は、居館から遠くない場所の、
比較的平地に近く、遠くを見渡せる山の上に築かれます。

しかし、この千早城は、楠木氏の詰めの城である
”赤坂城”よりも奥深い山間に築かれ、
山城のなかでも、ひときわ戦いを意識した城でした。

正成が千早城を築いたとき、一度赤坂城を
幕府軍に奪われていました。

その経験から、背後に金剛寺があり、
大軍の展開が難しい場所
を選んだわけです。

籠城には、水と食料が欠かせません。
赤坂城も堅城だったようですが、
兵糧攻めに苦しめられました。

そこで、千早城には十分な水と食料を準備していたので
長期にわたり立て籠もることができました。

反対に人数の多い幕府軍にとっては、
飲食は大きな負担になり、長期にわたるほど
排泄物などの衛生面で不利になります。

そこで、幕府軍は数をたのみに攻め寄せます。

正成公は得意の奇策を駆使し、迎え撃ちます。

藁で作った人形を立て並べ、
時の声を上げて注意をひき、
幕府軍が攻め上ってきたところを、
落石で打撃をあたえたり、

ハシゴをかけて城に取りつく寄せ手に、
糞尿を落としたり、油をかけて松明の火を落とし、
たまらず退散させるなど、奮戦します。

大軍にも関わらず、小さな千早城を
落とせずにいたものだから、
その間に各地で反幕府の動きが活発化

新田義貞(にったよしさだ)は鎌倉を、
足利尊氏(あしかがたかうじ)は京都の
六波羅探題を襲うなどの動きが起きました。

幕府軍に参加していた武士たちも、
自分の領地で不穏な動きがあることを口実に、
しだいに陣を引き払う武将が増えていき、
結局落とすことができずに退却します。

こうして、千早城の戦いは幕を下ろしました。

幕府軍の”100万”という数には
誇張があるとの話があります。

しかし、数万はいたとのことですから、
10倍以上の寄せ手を防いだことは、
間違いないようですね。

正成公を祀る神社に

現在、千早城があった場所には、
「千早神社」が建立されていて、
参拝することができます。

城としての遺構には乏しく、三の丸に社務所、
二の丸に社殿があり、本丸は神域となっていて
自由に入ることはできません。

神社の境内として整備されているので、
城郭遺構を期待していくとガッカリする結果になります。

正成公を慕う場所として訪れるのが
いいのかもしれません。

近くに金剛山への登山道入り口があり、
駐車場もあるので、車で訪れるのもいいですね。

まとめ

少数の兵で多数の寄せ手を防ぐことができるのは、
山城ならではの攻防でしょう。

千早城の戦いの後、山城に引き寄せて戦う
ゲリラ戦が活発になっていきます。

鎌倉幕府終焉の原動力になり、
時の人となった楠木正成公ですが、
南北朝時代に南朝に付き、敗れたことで、
朝敵となります。

しかし、朝廷への忠義は篤く、
よく補佐したことで、
後年(永禄2年(1559年))に名誉回復されました

現在皇居の丸の内付近には、
正成公の銅像が建っています。

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